日記

とみいえひろこ/日記

2022.05.06

電話で話していたとき、話の流れで、私がそのように言ったことでその子が傷ついてしまったかもしれない、ということを言った。そんなふうな思い方を私はしないはずなのに、と思う。そのときは私がそう言うのが自然だと思い、またたぶんほんとにそう思ったから言ったんだと思う。誰かが誰かの心すら横取りして、傷ついてしまったかもしれないなどと思う横暴さがすごくいや、そんな苦しくむなしいのはほんとうにきつい。はず。

こういうふうにして態度や思い方が型にはまっていくものなんだと思う。積み上がっていくものなんだと思う。名前をもらったら、その名前に寄せていきたい気持ちがうまれる。ふるまいかたがわかってくる気持ちよさもうまれる。すっきり行くことも、わからないことも、名前さえあればそれなりに大丈夫で、それを求めるようになっていく。そちら側に救いがあるということになっているから。

 

菊池良和『吃音の世界』(光文社新書)。よかれと思って「言葉の先取り」をすることがどんなに残酷なことか、わかる。またわかる。よくわかる。何度もわかる。ただ、立ち止まる。よかれと思って、という心理状態にならざるを得ないことになる状態、ずっと続いてきてここしか突破口がないという長い長い状態に追い込んだものは、追いこまれたものは何だと思う。どんなに残酷なことかわかるわかり方がいつも、どちらかといえば、「追い込む」側にいることができる者によって諭され教えられることでわかってきたことだったというのが残酷だと思う。「追い込む」側に対して応えなければいけないことがとても多いから、できるだけ全方位にせめて「よかれと思って」とる行動が「言葉の先取り」だったのではなかったか、誰も、いつも。立ち止まって耳を傾ける時間をいつもどこに、どの役に、どのように、私は奪わせてきたのかと思う。私が聞いて、よくわかることは、ほんとは何を黙らせ、動けなくしていることなのか。どの役をわりふられている、誰を。

 

いろんな時期のいろんな立場から書かれたものを少しずつ読んできた。すこし昔のもの、あたらしい決まりができるかできないかという頃のほうがなにか見るべき素材がつまっているように感じる感じは何なんだろう。困難さや複雑さ、そこまで他人が入っていってはいけないところ。入っていけるところに食い込もうとして、すこしは現実のことが書かれているように思うもの。解消されていくものもたくさん、より重く危うくなっていくものもたくさん。消されてはいないけど、いつまでも置いてきぼりの何か。その何かをとりまくものの価値観や状況が、いかに反動によってつくられ壊されていくものか、だから今は何が流行りでこれからどうなっていくか、なんとなくうっすら、実感としてわかるように思う。「何かをとりまくもの」についてなら、わかるように思う。

鶴光代/編『発達障害児への心理的援助』(金剛出版)、西倉実季『顔にあざのある女性たち「問題経験の語り」の社会学』(生活書院)。

 

2022.04.30

どれほど、どのように見てきたかということや、経験が、声のうらに張り付いているのがとてもよくわかるから、ひとことひとこと滝を浴びるようにただ聴く時間にしよう、と思った。話している内容はベーシックなことだと思うけど、でもそれも、相手のレベルにあわせて内容をそのときに選びとって話しているのだろう。伝えることは同じなのかもしれない。

いろいろ反省している。ただ、わたしもまたものを見て、これで行くしかないと選んで決めてきた条件と目的たちだった。積み重なって、こういう方法をとってきたわたしになった。どれほど、どのように見ることができたか、すこし違うやりかたもきっとあった。

聴くように話すのだなあ、聴くために話すというスタイルを身に付けた方なんだなあと、思い出しながら思う。

2時間の講義にて。独立して4年目に入る。家のこと自分のことと密着して仕事のことが自分のなかにある。

手を離す想像をしたよこがおを見ていたために匂う林檎は


モノクロの写真のそんな顔をしているとき何をかんがえている


駄目にしてしまう手を持つ 取り出してシャワーを浴びせあたためている


頬づえにあわく光の耳眺めたくさんひとをきらいになった


いいえ いいえ いいえ いいえ 知らないのに寄り添わないでほしい


銀紙を可燃のほうへ選分けてサックスブルーの猫の目と遭う


ごみを出し終えてひらたい水色の影のわたしの居残るような


香水が欲しいとふいにつよく思う 人の消えてしまった夜に

 

 

(「かばん」2022年4月号より)

2022.04.22

自分たちのために、一緒にみてもらうために、自分のために、などの理由で各方面あてに同じような記録をつけることになった。おもに自分の納得のために、なんだと思う。ただ、このペースでいくのは無茶で、そのうち落ち着きどころがわかると思う。たとえば「このペースでいく」のが目的になって自滅したのが昔。〈きのう〉のうちのどこか。

このような、力の入れ方や方向をぐっと変える頃合いというのがあるのだと思う。今日はこういう感じなんだ、今はこういう感じなんだ、というのを恐る恐るわたしは後ろから見ている。一方向からしか見られないから、関わってくれる人たちには、一緒に見てほしいということだけを頼んできた、つもりで、それが伝わっていたのではなかったのかもしれないと思う。自分のしどろもどろさが伝わっているなら安心する。

一週間後はどういう感じになっているんだろう。明日どうなっているかわからない、または明日もこんなだろうという感じのときとはちょっと違うと思う。読めないことがほとんどで、ただ、読んでいる感覚、読みがいがある、という感覚がある。ひとりずもうではない感覚。もとからそうだったところを、わたしが、自分の引きどころを少しわかってきた感覚。または、やっぱり相手のなかに、外側へ向けていく力がついてきた感覚かもしれない。

自分が犠牲にするものが同じだとも思う。またこうなってしまうと思う。5時間ほど集中したいことがあって、大事にしたいのに、そこに行くまでが無理で、返事、返事、修正、修正、それで疲れ果ててしまう。もう捨てられるのではないかと思う。駄目にするのではないかと思う。ここも、別の次元でわたしには大事で、力の入れどころなんだということを犠牲にしている。ほかにももっとある。ここだけはと当たり前に大事にしているつもりだった。ほんとうに。とにかく「こなす」ことに力を注ぐうち、こなす態度がこんなにべったり身についてしまった、と感じたことがあった。恐ろしいのは、このことをまず外側のせいだと考えること、が、身についていること。

もう、ここにいるんだ、だから目的や試すことを変えていかなくてはいけないんだ。毎日毎日見ているものが今実際に自分たちがいるらしき場所に気づくのが遅れてくらくらする。ただ、〈きのう〉のことを知っているのはわたしだけで、このように遅れをとる役ということにも何か意味のようなものはあるのかもしれないとも思う。

 

なにもできなくても、見ていなければいけない

 

この「命題」は、ひとりのなかで固有の時間を経て、もっと幅のある、たくさんの〈きのう〉をも含めて自分の、自分たちのぜんぶを肯定するゆるしのような尊厳のような、外との通路にもなるような言葉になった。そう読んだ。文章のなかで命題を先に読んだから、そのいきさつがよくわかる。「命題」と受け取ったいきさつのいきさつも。本を閉じると、でも、命題が時間を経て言語化されるようになったそれを受け取るのはけっこう難しいなと思う。読んだときはっとしたのにその言葉が含む意味はわたしのなかで泡のように消えてしまい、そらぞらしいただのきれいごとにも思える。〈きのう〉の後ろめたさに、ぜんぶの失敗に、どうすることもできない否定の感覚に、悔いに、縛りつけられている、通路の閉じられたほうの、言葉以前の、放っておいて先へ進むのはゆるさないという命題のほうに、それを命題と受け取ったことのほうにこだわっていたい。そのほうがいい。今は。お互いに。と思う。

宮地尚子『傷を愛せるか』(大月書店))

 

水に浸けている豆苗が毎日ひゅるひゅるのびる。犬が一緒に食べてくれるのが嬉しい。

2022.04.09

環境が、条件がふっとそろうときがいつかは来て、そこに居合わすことだけに注意を払えば、ほんとうにふっと、ふわりと、こちらが理解できるように教えてくれる、ときがある。

この条件がどんな条件かということがよくわかってきたことと、もっとよく観察すればこういう条件がそろうときがもっと頻繁にあるような気がすること。

教えてくれたそれがそれかと思う。教えてくれたそれは、書いてあるそれはこういうことだろうかと、かなり前から私ひとりがつねづね怪しんでいたことに通じていると思う。やっとつながってきた、と思う。そして、わたしが外から言うなどということをしなくてほんとうによかった。そういうのはほんとうに意味がなく、逆に働くだけなんだ。私のや私たちのではなく、教えてくれた〈それ〉のことを見よう、それをどうやったらいいかということについての答えはたくさん見かけてきた。答えはいつも、いつもいつも、私や私たちにとっての答えをあなたに出させるというやり方だった。ただ、それは、あなたにとっても私にとっても必要だ。と私は思う。あなただけの〈それ〉と、たくさんのそれぞれの観察や経験によって示されている答え。私が〈それ〉を自分のものにしないように見るということを守っていれば、あなたの経験を見るということを守っていれば、どこかいいところに着地できるように思う。「経験」と書いたそれもまた、私の思うそれとまったく違うもの。

噴水の方

噴水の方まで逃げたって同じよ 帰って生きていなくては駄目、と


今 バスの大きなやわらかな影が頬に暗さを塗り込めていく


何枚か鋏で切って悲しみをテーブルに置いてゆく手のひら


いつ終えても終えられなくてもかまわない 貝に火通す夜に鈴の音


浴室の昼には影になるところ林檎の香りすこし残して


きいているあいだじゅう風吹いていた吹かれて髪が耳を隠した


階段を下りれば暗い前髪のあなたがあなたのまま起きている


またいつか いつかが来なくてもいつか仕方のなさを互いに持ち寄り

 

 

(「かばん」2022年3月号より)

2022.04.06

理解というつながり方ならできるのかもしれない。理解は、理解する側の理解であって、理解のしかたはそのときに応じて無限にあってしまう。いつまでたっても理解へ辿りつけず、その道のりで自分にあった理解のしかたをさがす。これも違う。これも、これもどうも違う。いくつかのつながり方を手に入れることはできる。そのことが、それとつながるかどうかはわからないけれど。それのほんとうの苦しみは、それ自身のことは、誰にも理解されないし、侵してはならない。

この人のいない4月からわたしはどうやっていけばいいのだろう。そう思っていたけれど、どうやっていけばいいかわからないときのふるまい方もあるよということを、大丈夫ですよということを、気づかないところで、気づかないうちに、しるしをつけてくれていたのだときのう思った。