日記

とみいえひろこ/日記

2023.05.15

怖い映画を観た。

・一日が終わる、ひとつ終わる、というときにはじまる。

・一日が終わる、ひとつ終わる、というのは、明日がある、もうひとつある、というのが分かっていること。

・怖い映画は最後まで見ないといけない。最後まで見たら終わる。

飛び級はできず、いずれひとつひとつ、本人が経験して身につけていくしかない。ペースも課題もひとりひとり違う。そのひとつひとつを、あのふたりは大急ぎで、それぞれのニーズに突き動かされてやったのだと思う。その時間も真実だった。おおもとは、嘘だった。同時に真実だった、行き場のない。行き場のないものが悲しみに向かった。

・怖すぎ。極端で、寓話的で、グロテスク。グロテスクなものは深いところから抉るから、そこでつながって誰もが自分のこととして見てしまう。

・終わりとはじまりのあいだ、つなぎめとして、穏やかな波として怖い映画がふっと入ってくる。

 

(「嘆きのピエタ」)

2023.05.12

『嗅ぐ文学、動く言葉、感じる読書 自閉症者と小説を読む』ラルフ・ジェームズ・サヴァリーズ 岩坂彰/訳(みすず書房

 

「自分の足を見つけ出す」というユージェニーの章が心に残った。いろいろ書き写したのにうまく保存できていなかった。

 

ユージェニーというバレエダンサーと一緒に『心は孤独な旅人』を読んでいくなかで、ユージェニーが彼女の経験によって独特に獲得した、物語のなかに飛び込むような読み方が見えてくる。飛び込む身体が出会って受けてきたものが見えてくる。

 

「バレエは、言葉に翻訳する必要なく受け取られるようなあり方で、自身の物語を語らなければならない」

「複雑な物語は語ることができない……同義語は踊ることができない」。物語の複雑さは身体の上に置きなおされている。それはダンサーがどのようにダイナミックに空間を占めるかという問題になる。日常生活の中では、ユージェニーはもっと伝統的で、もっと自覚を伴う言語的な枠組みを必要とした。

 

この母親との話を聞くと、聾者でありかつ自閉症であることがいかにたいへんであるかがよくわかる——まして、聾者であり、かつ自閉症であり、かつ黒人であり、かつ白人であり、かつモンゴル人であり、かつ日本人であり、かつインドネシア人であり、かつチェロキー族であり、かつユダヤ人であるユージェニーであればなおさらである。

ユージェニーは母親のシャナからマルチレイシャル性について多くを学んでいた。しかしその母親でさえ自閉症を受け入れられなかった。「母は私の独自性の価値を認めてくれたけれど、それは彼女が私について受け入れられる特徴に限ってのことだった」とユージェニーは言う。いくつか難しい理由があって、母親は混在する特徴の中に神経学的なものを加えることができなかった。彼女から離れていった夫は、おそらく自閉症スペクトラムだった

 

ユージェニーとこの小説について話をしているうちに、彼女が先述の障害児学校でのような経験を何度もしてきていることがわかってきた。どんな集団であれ、多くの形の特異性に対応できる余裕は持てない。そこで彼女は〈自分自身〉になることに決めた。私はそれを、〈多面的でつかみどころのない自己〉と呼ぶことにした。「そう、私はほんとうにつかみどころがない」と彼女も認めた。

 

しかし、この悲劇には何か不当なものが入り込んでいる。ある種の冷酷な恩着せがましさのようなもの。それをユージェニーは感じ取っていた。
彼女の「乗り越え」も社会的、経済的、政治的解決策の必要性を認めるものではあったが、同時にカテゴリーが持つ暴力性を理解し、その暴力を人々に向けるのではなく、それを生み出す考え方に向け直そうとすることであった。

 

混沌、たとえばひとつの身体のなかに抱え込んで、何がここにあるのかも向かう先もわからなくなった〈交差性〉が抑圧されず表現される営みを持続させるための抜け道だったり仕掛けとしての、クィア性、さまよい、不安定さ。足を地面に置く。地面の不安定さによってその置き方が自ずと決まる、跳ね返ってくる不安定さと一緒にまみえながらけれども歩くしかないなかに、自分の足を見つけ出す。見つけ出す目が現れる。その足は見えないし、つかみどころがない。こんな混沌とした地面は、こんなふうにしてしか、この足でしか歩けない。この足でだけは歩くことができる上に、踊ることができる。

 

さらに彼女はバレエを通じて、優雅さの必要性を学んだ。

2023.05.11

下山真衣『知的障害のある人への心理支援 思春期・青年期におけるメンタルヘルス』(学苑社)


学ぶところがすごく多かった本。
というか、自分がなんとなく考えてきたこと、よかれと思ってやってきたこと、なんとなく信用してきたこと、が全部間違っていたのではないか、見るところが間違っていたのではないか、遅かったのではないか、と落ち込んだ。
言葉にならないこと、内側で統合できずにそのまま溢れ出しそうであること、表現することが難しいことから来る困りごと独特の、かたちがある、押さえどころがある。ただ、こうやって文章で書いた途端にそうじゃない、違う、と思う。
ひとりひとりがもつ独特の困りごとのもとになっているところを的確に見つけて、的確に対応することが当たり前だけどとても大事なことで、そう出来ないことはほんとに迷惑でしかなく、よけいに掻き回すだけなことが多い、とほんとに思う。

 

プリセラピーについて書かれていたことも、心に残った。

クライエントの言動、表情、場の状況などを、「反射」する(ことばにして伝え返す/なぞる)ことで、クライエントとの心理的接触を試みます。そして、このカウンセラーの反射(技法)によって、クライエントの心理的機能が賦活され、クライエントが少しずつ自己、他者、世界と接触をし、それを表現していくことが期待されています。

 

いわゆるオウム返しによって、本人の「ことばがまとまってきて、声も大きくなって」くる場面が書かれていた。言葉にしにくい子にとって、その子全体を聞く側の聞/聴き方がいかに大事か、いかにそれが本人の状況を左右するかということが、身に沁みる。

自分のためにやるのがいいことと、自分のためにやったら駄目なことがあって、相手を聞くことを自分のためにやったらほんとに駄目だなと思った。

2023.05.08

疲れているときや時間がないときに、簡単で、「身内」を下げる方法をとりがちなこと、そのことに自覚していないことが嫌で醜い、見にくいんだなと思った。「身内」という名前をそう使うための目安にしているのも。「身内」は内面にある。内面にそれがあるときは下げるも上げるもない。「下げる」というよその道具を身の内に取り込んだ私として外に向いて立つときに、外向けに「下げる」を使う。それが私の、外というものの解釈ということ。外に向くとき当たり前に外の道具を使っているということ。内も外もばかにしている。
理由があってできない、無理かも、ということや、要素がいくつかあって複雑なことを伝えるときに、内容に加えて「情」で色をつけないと相手にわかってもらえない、といつ私は信じたのだろう。それは私にとって、相手も自分も雑に扱うことでしかなく、それをやる自分、やった自分がすごく嫌で未熟で情けない、見たくもないから見ない、という感じ。

これが溜まっていくと、いろんな意味でとってもしんどいし、そう、ほんとにしんどいだけだなと思った。どの立場もしんどくさせるだけで、動けなくするだけで。

少しずつ、余計なことを話さないで伝えられるようになってきたんだと感じたタイミングがあって、ほんとはそんなこと思ってもないし言いたくもなかった、ということを具体的に恨みがましく思い出している。ほんとうにばかみたい。あらかじめ深いところで自分の態度を決めておくことが助けになるんだろうか。

2023.05.04

D.W ウィニコット 橋本雅雄・大矢泰士/訳『新版 子どもの治療相談面接』、ディディエ・エリボン『ランスへの帰郷』、青木省三『ぼくらの中の「トラウマ」 いたみを癒すということ』、ラルフ・ジェームズ・サヴァリーズ 岩坂彰/訳『嗅ぐ文学、動く言葉、感じる読書 自閉症者と小説を読む』、イターシャ・L・ウォマック『アフロフューチャリズム ブラック・カルチャーと未来の想像力』。
「傷はまもられなければならない。支援を求めるとしても、理由やほんとうの思いを曝け出すことを引き換えにしなくていい。簡単に自分の秘密を相手に話さないほうがいい。」ということが書かれていて、こういったことはほんとに忘れがちな前提だと思った。

思い入れのある子、ティト、という子にここでもまた会えて嬉しい。


感情、感情といってもこの自分の身体の内外のすごくすごく繊細な環境の変化への適応、応答として自動的に弾き出されるそれしかない「反応」なんだなと実感した。どう弾き出されるかは自分の経験の積み重ねによるもの。身体の変化にびっくりして、あらためて、それだけなんだなと思った。
私というのは、その反応をここではなくどこでもないどこからからひとりつめたくつきはなしてみる、みる、という言葉ももたず観察する、思う、考える何か、遅れてやってくるもの。遅れてやってくると決めて、残ってしまったもの。ここにはいないし、言葉も通じないもの。仮にそれとしたもの。誰か、遠くのあなたの約束のために、仮にそれとする、と決める力の動き方のようなもの。

2023.05.01

・きのうは2つ、配信で映画を観た。流し見でも、ずーんと残る。

 

・時間のかかっていたこと、とても良い反応をいただいた。資料集めておいてよかったなあと思う。初めての試みもあり、嬉しい。旅の資料、魔女の資料、二色印刷の資料。

ほかのことも、いつものようにいろいろ重なってぜんぜん進まない。

 

・「私というパズル」(監督/コーネル・ムンドルッツォ)。冷蔵庫は白い箱、エレベーターは透明。過去と未来。こちらとそちら。一度だけ、託された私だけが嗅いだ、林檎の香り。誤りがあった、そのために内面に刻まれるもののつよさ。名前の外にも誤りがあり、だから、名前のなかにも林檎があった。冷蔵庫の外側に貼っていたものを剥がす、内側に容れるものを選び直す。残された香りにつながりながら思う、じっとする。じっと冬があり、じっとする、その待ち方によってつながりの向こうにある種をふと集める時を生む。集めた種を適切に扱おうとして託すことが喪の作業だった。作業をするなかで、意味が変わっていく。

 

・「台北暮色」(監督/ホアン・シー)。私が気になったのはあの子、あの子の見ている世界や、向かっている世界、棲んでいる世界がどんなふうだろうということ。あの子と母親の時間の流れ方は少し独特で、ほどよく放って置かれていて、よかったと思った。

共有しないといけない(と私が理解する)前提があって、それをもとに本人の外側のさまざまなことを曝して奪い、もっと外側に共有することにくたくたに疲れている。もはやもうそのさまざまなことは本人と何の関係もなく、本人の内面を私なりに思ったり触れたりすることのないうちに時間が過ぎてしまっているのではないか、とふと思う。本人が本人としてどう生きていくのか、本人の内面的なことを、外から何にもならないことを前提にじっくり私がたったひとりで深めて思う時間ってとれているんだろうか。それぞれの登場人物に託されたそれぞれの困りごとと選択(というか行き着くしかなかったところ)が外にひらかれ、複雑な傷をたくさんつけて呼吸をするときの温度や湿度、暮色と混ざり合ってとても美しかった。

全部説明する必要はなく、全部折り合いをつけてどうにかする必要はなく、〈何にも曝さず、折り合いなどつくものかと怒って抱え守っておく必要があるもの〉にかける時間について。