日記

とみいえひろこ/日記

2020.12.20

 

とにかく良いとほれこんだら、夢中になって対象に食い入ること意外にどんな方法があるでしょうか。

著/粟津潔 編集/粟津デザイン室『デザインする言葉』 (フィルムアート社)

 

隣のページにあった絵がにおうようにきれいだった。暗がりに食い入る肉のにおい。

けれど、遠くにどうにかいて、最後まで見届ける方法ではだめなんだろうか、そうなってしまうし、自分にはそれがいいんだと思う。

遠回りして、辿り着けなくても、ギリギリ手放さず心においておくこと。絶対に彼に取り入らず、理解せず、OKを出さず、遠回りして遠回りして、自分のなかで納得のいかないことにこだわり、ゆるさない。ゆるさないことでつなぎとめて受け継ぐということ。細部について、ふとしたときのなんでもないことについて、そのときのあなたのなかの誰かを思慕し、ものごとを分けたときに浮かび上がってくるいくつかの点については嫌だなと思う、どこが自分にとって嫌かを考える。

わたしのために彼が選んでくれたもの、選んでくれたことを憎む。自分だけのやり方でそれと関わり続ける、関わりつづけるしかないからそのことをどう自分のなかで意味付けるかを逃げて逃げて逃げることで表現する、というやりかたで、いいのではないか。それもまた相手の手の内だと思うなら、さらに別の方法がある。そこに逸れてゆく。逸れてゆくことができる環境を自分のためにつくることを考えている。「良い」とほれこむことなどあるだろうか。「ほれこむ」とき、わたしは誰になっているのだろうか。

 

本について。

「かたち」の話、「か」「かた」「かたち」という言葉についての洞察と、洞察に至るまでの知識の幅と理解の深さにぞくぞくした。自分ののどをとおして言葉を震わせ、響かせて伝えてくる技にも。

そして、言葉にもデザインにも実体はなく、その人のその時の方法を与えられたものとしてそのまま引き取ることは、ちょっと違っていて、苦しいやり方だ。いないわたしが読み、「か」「かた」「かたち」を感じて理解しようとすることが必要なんだと思う、とても流動的に。