日記

とみいえひろこ/日記

2021.03.29

たまに自分が暮らしていてよく知っている「ここ」の言葉に聞こえるときがあるから、驚く。自分がすっかり知っているつもりになっている言葉の意味をすばやく超え、もっと濃く、もっとまっすぐ、言葉として、でも意味はわからないで、ふいにここへ届く。ふいにここへ届く、わかれたはずの言葉。それは生死や時間を超えて、わたしの首のうしろを這い、じんじん叩く。腫れようとしている場所があり、痛みをもとにさぐりあてて取りにいかなければとわたしに思わせる。「ここ」はここではない。そんなこととっくにわかっているのに、いつも面倒で忘れてしまおうとする。そのことを言葉は叩く。

言葉の言葉をたしかにどこかでわたしは深く理解している、だからおそれる。たしかに、きっと、一瞬わたしの首を這った言葉は「ここ」の言葉が今纏っている意味にもよく似ているのだろう。同時に、「ここ」をこことして暮らす場所にするために、どこかできっと分岐したはず、犠牲になったはずのものがある。捨ててきたほうの意味を濃く体に刻んだまま、それは暗闇で言葉になった。

枯葉に似た体をもつ生きものが首をふる、三月の枯葉がひらめく。時間を戻りたいような思いが誰のものでもなくなって公園を湿らしたまま、長い四月になる。白い桜が思い出のように灯る。

首をふるものとわたしは意味でわかりあうことはない、首をふるものがわたしより先に死ぬまでも、死んでからもずっと。

きっともうすこししたら、わたしのほうは意味でわかりあわなければいけない人との時間をもつことになるだろう。そのときも今と同じように答えがいくらでもあるだろう。意味でわかりあわなければいけないのかなと思う、もうそれはいいのではないかなと思う。

進め方が独特で、自分を疑いながら進める。でも、ひとつOKがふってきてよかった。