日記

とみいえひろこ/日記

2021.11.19

細かなことをこなそうとしているうちに自分のことが混じっていって道が逸れていって、いろいろ先送りしてしまった。こういうときに、時間が飛んでしまう。ああ、やってしまったと思う、放っておいてしまったと、顔を見に行って、戻る。

何かしながら「母なる証明」(ポン・ジュノ)をなんとなくみていたのはきのうか、その前の日か。時間をかけて、実体のない鈍痛みたいにからだのなかに沈殿していく。音楽と、名も役割もない何者かのダンス、身ぶり、という言葉。光と終わっていく季節のなか。

このひとは、この関係はいったい何で、いったい何を思っていてどうしたいというんだろう。何の意味があるのかどういう感情なのか、奇怪なものをみるようにみるわたしは何のコードにどっぷり浸かっていて何者のつもりなんだろうか? と、恐ろしいものが自分のなかにあるのではないかと思い当たる。思い当たる感覚という既知のものはないはずだから、思い当たったとわたしが錯覚したその何かは消える。自分に感じ取れる限りでは。

〈感情移入〉や〈共感〉しにくいものに対する自分の態度や姿勢というのはほんとうに残酷だ。〈感情移入〉や〈共感〉できてしまうものに対する自分の態度や姿勢というのはじゃあ何なんだろう? 何をわたしはそこに託して楽になっているんだろう? 託したがり、見たがっているんだろう? 〈理解〉とわたしが思っているものは何だろう? たとえば〈支配〉とかのことを〈理解〉と呼んできただろうか。もっと、もっと何か生ぐさいもの。

原題は「母」なんだという。そう、これはたしかに母という表現で、このひとの手探りの母なんだと思う。というか、ここにいるわたしになど何かを思う隙も与えられず、そうなんだと知る。見せられる。見てしまう。

愚直に母という〈愛〉という他所の言葉を、自分の身体をかけてやったらこうなった。こうしかなれなかった。当たり前じゃないか? という、表現の、心の、言葉の、ダンスの、音楽の話だと、とりあえずとらえてみている。

自分の行動や考えを淡々と言葉にして記録したら、何を意味のない虚しいことをしているのだろう、と思うだろう。わからないことをまともに見ようとしたら気が狂ってしまうだろう。