日記

とみいえひろこ/日記

2022.01.01

短い、さびしい淵に来て、ふたりか三人はすこし話す。それぞれがそこを出ていくまで。話はたいてい噛み合わない話だった、内容もタイミングも。みんな自分のことばかり話し、自分のことばかり考えていた。誤解は解かれず、ほんとうのことは語られず、いつもどちらかが、または全員が傷つき、ばかにされたような、むなしい、さみしいような思いを持ち帰った。何だったんだろう、わたしがしてきたのは。

打ち明け話はしてもよかったし、そこまで話さなくともよかった。いとこほどの距離は守られていた。苦い甘いコーヒーを飲んで、どちらかが吐く煙のなかでどちらかがすこし泣いた。泣かなかった者が泣いた者よりもっと泣きたかった。

最後に淵に来たふたりは老人だった。お互いの話など聞かない、聞けない時期というものが誰にもある。その時期を超え、耳に入ってくるすべてが自分ごととして聞こえる時期を生きるふたりの老人が、最後の人生だった。

終演後片付けやすいように、もう舞台からいろいろなものが取り払われている。残されたテーブルと黒いコーヒー、黒いカーテン。後ろでは掃き掃除が始まっている。

 

駄目になったら、ここに来てたくさん怒り、たくさん辛いものを食べ、そのあとに甘いものを食べ、いつもたくさん飲み、たくさん笑い、たくさん泣き、悲しみ、感情がおさまらないまま眠ればいい。ここでなら、厳しいけれどゼロからでもやっていけるだろう。人が喜ぶたくさんのもののうち、金に結びつくいくつかのことをぎりぎりのかたちにして、売ってやっていくことが、ここでならなんとかできるはずだ。

静かにしたいときは、ここと似た淵に来て誰かを待ち、または誰かを待っているような顔で、苦い甘いコーヒーを飲み、煙のなかで泣けばいい。もっと泣きたい者がいるはずなのに、そいつがまだ来ないと言って。