日記

とみいえひろこ/日記

2022.01.10

スナウラ・テイラー 今津有梨・訳『荷を引く動物たち 動物の解放と障害者の解放』(洛北出版)

繁殖と搾取を通してわたしたちが生み出した倫理的問題のかずかずを解きほどくことを試みる前に、わたしたちは、異なる動物たちに対するわたしたちの責任にかんして、たくさんの複雑な問いを想起せねばならない。

 

なんでもいいけど例えば、「繁殖と搾取を通してわたしたちが生み出した倫理的問題のかずかずを解きほどく」のだと決めてかかる前に、わたしは、わたしはひとり、すぐそばにいながらふっと捨ててしまいそうになるこの未知のむにゃむにゃと、(わたしからみて)通じ合う言葉など捨て、何があっても、何にならなくても、一緒にいなければならない。離れるときが来ても、もう見てしまったのだから見てしまったもの自体はわたしの責任になった。これは相手のことではなく自分のことなのだ。既に知っている(と思っている)やり方や見方でうまくいったり切り抜けられるはずがない。「たくさんの複雑な問い」をごまかさないように注意すること、どうやって注意すればいいのかわからないところを。一緒にいる、ということ自体がわからない。わからないまま、いなければならない。

最近思うのは、なにかちょっとした選択が必要になるたびに思うのは、もっとほんとうにわたしは彼のことをなんにもわかっていないのだということ、わからない未知の方法をいつもなんとか見つけてやってみて、うまくいかないだろう中でなんとか切り抜けられる道すじをつけるしかないのだということ。うまくいっているように感じるときは、ぜんぶたぶんこちらの道理でものごとを見ているだけなんだということ、見誤っているということ。

 

『続・井坂洋子詩集』(思潮社)をお風呂で読んだ。縛りがないとわたしは不安ですーっと読み飛ばしてしまう。ゆっくり読む、ゆっくりやる、ということをとても難しく思う性質だから、読むということの深みがわからない、とくに自由詩として括られたものがぜんぜんわからない。重たい、そこにぜんぶつまっているはずのものを受け取っているはずなのに受け取りどころがわからなくてまるごと落っことしてしまう、といつも思っていた。おかしな期待をかけているのだとも思う。

読んでいて、ああ、こういう軽さなんだとふと思ったタイミングがあった。こういう、価値や善悪や自他の境界に意味をおかない、何も意味をこの場所に残さない軽さを目指す言葉の操作なんだ。

通じる言葉や使える言葉というものがあるということにして、いろいろなルールにまもられながらいつもわたしもひとつの劇に参加しているけれど、もちろん場所が変われば違うルールがある、違う価値がある、違う言葉の役割がある。この場所からふっと落ちることが、いつでも、今でも、できる。そっちがわの世界にも受け皿はある。輪郭のうすいその場所で、必要に迫られて出てきた言葉の連なりの運動、その受け皿からもまた逃れていく運動。