日記

とみいえひろこ/日記

2022.01.14

まだこれが答えのすべてというわけではないけれど、このあたりで今は納得しておいて、そしてもう少し近づいて見ていくことができるんじゃないかというところに来た。寒くて自転車で泣きながら帰る。ずっと考えていたのに、すぐ思いつきそうなことなのに、自分のことだからやっぱり辿り着けなかった。

母子密着状態になることを避けるために、わたしが、母から離れたのだと思う。まったくこどもだったからとても幼稚なやり方だったし、逆にものすごく時間がかかってしまった。身を離したそのあと自分の頭のなかにおく大人は、やっぱり自分でつくった母の影であることが多かった。そうでなければ、自分の知っている範囲の大人を選んでしまうから、もっと危うい影をおくことになる。だから、幻痛、幻痒がたくさんあったのだ。形を変え姿を変え、なんかほんとうの傷ではないらしい現れとずっとわたしは一緒にいた、一緒にいてわかりたかったと思っていたと思う。あれらの痛みはもとはぜんぶ同じで、とても適切な現れ方をしていた。幻から自分が受け取っていると思い、押し返そうとしていたものが、いつも相反する感情や感覚だったのは、頭のなかに新しい大人となじみの影のどちらもが居たからだ。

こういうことを、みんな、やっていくのだ。わたしはずっと出来なかった。

Agust-Dの사람を何度も聴き、久しぶりに開いてしまったGOMESSくんのラップを聴き、涙をたくさん流し、持ち込んだ本を読みながら、思い立って流れついた成り行きを丸や四角でつなげていき、あらためて眺めた。書かれていたこと、性のこととお金のことが同じことだということを言っている。そうだろうと思う。

テラス席で話しているふたりが目に入っていた。手話で話しているとなんとなく思っていたけれど違った。

先に未来が来るのだと思う。未来に溺れる時間をどこかですこしつくらなければならない。つくらざるを得ない状況になる。受け容れ体勢はいつも整うことはないものだけど、整いかけたところで、ずっと昔の自分の現れに関わることにふっと遭遇する。今ならそこに身体をもっていかれず、ひとつの例として、べつの見方で見直してみることができると思う。ということが続く。今、外にいる何か、誰かと、ぴんと糸の張ったひとり同士の行き来があって、また今が来た。

この距離感のままでいいんだと思う。ひとりになって聴く曲がダイレクトに入ってくるのがあまりに良くて、もともと離していた身をふっと自分で引き剥がし、もっとひとりになった。

剥がしたかったのは母もそうで、母は母で、子が剥がすところまでなんとかして持ち込んだのだ。そういうことなんだと思う。

こんなことはもちろんひとり相撲で、いつも誰も何も悪くなく、自分以外のひとにとっては自分の解釈などまったくの見当違いで、答えはほんとうは何もない。

今わたしが持っている鍵にどうしてもこれが関わっている気がするから、といって、自分のことばかり長くひとりで話していた。よかった、もうほんとうにおしまいにしたかった。いつも後ろめたくてたまらなかった。