日記

とみいえひろこ/日記

2022.01.17

写真を撮るときは、これでおしまいだということをわかっていない。半分わかっている。

そろそろこの関わりはおしまいなんだとどこかで3人とも意識している。ある冬の日に、2人が向かい合っているときに写真を撮った。撮ったものを1人に見せながら、これをプリントしてあの人に渡そう、と言う。4枚撮ったうちの2枚を選びプリントして、封筒に入れてそのもう1人の人に渡す。コンビニのプリント、色がのっぺりして浅い。すこし褪せていて、もうすでに思い出のような写真だった。

あと何度か、こんなふうに関わる時間がある。

写真を撮ったあと世界が変わる。黄色いコートの女が映画で言っていた。

写真を撮って、これでおしまいになったのだと思った。もっと前から、おしまいになる前に、思い出に何かしるしをつけておきたいなということをぼんやりは考えていたのだ。そして、来るおしまいを迎えた。だから、次に3人で会うときはまた何も知らない者同士、はじめて会うように会うのだと思う。何度か会って、そのあとはほんとうに、いったんおしまい。そして、心のなかで劇的にはじまるだろう。それぞれの心のなかで。

黄色いコートの女はその映画で何度か写真を撮って去っていっただけだった。「strange」奇妙な、という台詞が何度かあった。黄色いコートの女も、その女と出会って別れた何人かの人間も、奇妙な絵を眺めながら階段を上ったり、変な歌を歌って聞かせたりした。誰もが旅先で出会った人だから、母国語とはべつの英語で、それが奇妙であることを告げ、思い思いに奇妙を味わった。お互いにそれ以上つなげる言葉をもたなかった。

何度か世界が変わり、別れの黄色やかなしみの黄色があった。これらの黄色の世界がすべて、黄色いコートの女から漏れて流れていく世界。何も撮らず、人の言葉の意味も知らない灰色の大きな犬だけがそれらをぜんぶみていたし、聴いていた。黄色いコートの女がわかっていて、わかりに行ったのは、そのときにわからなくても、あとから何度も見直し、見方を変えることができる、今ここで。ということだった。

わたしが書きたかったのはたぶん、写真を渡した相手が、黄色いコートの女のような役割を担う人だったということ。わたしが2人の写真を撮ったときに、わたしが黄色いコートの女の役になり、わたしはわたしのおしまいを迎えることができたのだということ。わたしはわたしの。だから、ほかの2人のみている世界がどうなのかは、やっぱりわからない。

(「クレアのカメラホン・サンス 監督)