日記

とみいえひろこ/日記

2022.01.19

濱野ちひろ『聖なるズー』(集英社)、読み終えて日が経つごとに身体に沈殿していくようだし、自分の身体的なスペースが身体の外へ広がってゆく感じ。同時に相手のエリアに敏感になる。

相手を、成熟したひとつのいきものとして対等に扱うということについて。

犬は風の音に敏感で、風に繊細に反応しながら自分の外側へ注意を向けている。わたしは月をすこし見上げたり、寒がったりしている。

日々があって、相手をこども扱いするのが、型通りに見るのが楽で、時間のないときはそれが安全だからそうしてしまう。それが積み重なってしまって簡単で単純なことが見えなくなる。これはほんとうに愚かで恐ろしいことで、はまりがちなことなんだと思う。

もとは名も言葉もないひとつとひとつだったし、もとは境界もあやふやだった。何を思うこともできるしゆるされる。このことを忘れてしまう。

名や言葉で区切られた自分のスペースのなかでなら、何を思うこともできるしゆるされる。その先の、思ってしまったことの扱い方について。持ってしまった力の扱い方について。記されていたそれぞれの考えや立場にいちいち納得してしまう、揺さぶられる。

思ってしまったこと、持ってしまった力をどう扱うか、その判断がすごく難しいということについて。いちばん尊重すべきものをいちばん傷つけてしまっている、実はそういうことばかりなんじゃないか、と思う。相手を成熟したひとつのいきものとして対等に扱うには、自分が成熟していないといけない、自分のなかに成熟を見る目がないといけない。こんな広い、さまざまなエリアが繊細に重なり合ったとても不安定なところで。

名や言葉で区切られていることや、そのなかで自分が何を思うこともできるしゆるされる、ということが見えなくなることばかりだと思う。たとえばこの犬と出会ったときも、出会ってからも、すごくいろんな、愚かな、原始的なことをわたしも思い、願ったはずだった。