日記

とみいえひろこ/日記

2022.05.22

戻る気も出て行く気もなく、ずっとひとつのことを思い出そうとしている。無駄に広げてしまった紙の、ときどきざわっと風にかたちを変えられて動く音。ほんとうにすこしずつ皺ができていくことで、やわらかくくたびれてゆく紙。

 

黒いヴェルベットの帽子、ライトブルーのコート、プリント・ジャージーのラップ・ドレス、黒のスエードのロングブーツ…。どんな時も何らかの衣服を着ていて、それはぜんぶ自分が選んだものだった。幼いときは母に作ってもらったものがあった。どんな時も、その服を着ていた理由があった。

どんな時も、服に包んだ心の動きが、動かなさがあった。そのときに身につけていたもの、そのときに抱えていた別れやよろこび、みじめさ、勘違い。小さな、とくに誰かに伝えるほどでもない、ひとりの人が生きるなかで起こってしまう、誰にでも起こり得るような出来事が淡々と短い文章で綴られている。その淡々とした感じがとてもよくて、何度もてきとうなページをひらく。服やアクセサリーや下着と、それを身につけた自分や友人、親戚のイラストが、カラフルでさらっとした奇妙ないい線で描かれている。笑った顔のイラストはない。不機嫌そうな、さめたような、骨張った顔で、この女の子は夢をみて、現実をみた。

90年代の終わりに出た本で、文字のぎゅっとつまった感じも、ばらばらに夢みるものを力技でひとつの箱にしまったような美意識も好き。かわいい。「裁縫をする母」「読書をする母」それぞれのファンタジーやつよい挫折感のこと、それを見てきた娘が大人になるにあたって決断を迫られるgood girl、bad girlといったアイデンティティーの選択、その時代背景について書かれた訳者の解説も素敵だった。この人の訳すものが好きで出会った本だった。

こんな原始的なというか、こんな懐かしいような、休まるような気持ちで読む本はとてもとっても久しぶりで、何度かページをめくるたび、いつかわたしが着ていた服を思い出す。言われたことや、思っていたことや、しなかったことや、してしまったことや、まだどうにもなっていないことや。

 

アイリーン・ベッカーマン 文・絵/河野万里子 訳『あのときわたしが着ていた服』(飛鳥新社