日記

とみいえひろこ/日記

岡崎裕美子『わたくしが樹木であれば』

ユニットバスに混ぜてはいけない塩素系洗剤を撒き眠りつつ待つ

 

どの歌でもいいけれど、一首。いつもずっと、頭のなかにいくつかの気がかりが絡まっていて、古い気がかりや新しい気がかりを埃が接着し、束ねている。わたしがしゃがんでそれを拾って整理したらよいのだが、その時間がやっぱりうまくとれない。落ち着いて埃をはらい気がかりをひもとく体力がない。数秒で力が尽きてしまう。優先すべきことは分かっているつもりで、でもここぐらいからしか前に進むことができない。短い歌も読めない。というなかで、何度かこの歌集を読んだ。

ひょうひょうと矛盾を受け入れる旅をしている感じなのが自分には読みやすかったのだと思う。読みやすかったというのは、作品を成り立たせるための歌の配置のしたたかさや、ここからは入ってこないでほしいという線引きや、べつの未知の通路を読者と一緒に照らそうとする手さぐり、分からせる・分からせない意図みたいなものの存在を感じたということ。読者として作品と出会うにあたって無駄なものを読む気にならなかったということ。歌集のなかに埋め込んであるしたたかさや意図、さまざまなしかけ。それを作者の気配と呼ぶなら、作者のいろいろな手によって読者であるわたしの存在が押し返される、その感覚を、味わって、落ち着く時間を持った。

作為と告白、加害と被害、落ちるとのぼりつめる、眠りたいと眠りたくない。反対のような言葉、向こう側にある言葉は、もともとこちらが生き延びるために追い出したものだった。または、もしくは、だからこそ、こちら側がよけいに抱え込んでいて今でも逃れられないもの。作為のなかに告白があって、告白さんは作為であるわたくしのことを誰よりもよく知っている。この関係をほかの誰にも名付けさせない。誰もこの関係をわからないだろう。でも誰もがおんなじようなことをやっている。誰もが誰にも知られない、知られようがない、たったひとつのやりかたをもっている。

歌をつくる視線が冷めていていつもメタ的で、そのため思い出して一首ぱらっと読んでもなんだか派手に感じたり明晰だったり、意図を感じてしまう気になる。一冊途切れつつでもゆっくり読み通したときに味わったあの、混沌と矛盾がのびのびと棲息する沼へ入っていったような、おだやかなようなあたたかいような感覚が消えてしまった、と思ってしまう。それで手元に置いて、お風呂で読んだりしている。

 

誰からも触れられぬまま腐りゆく果物のあり夜のキッチン

 

岡崎裕美子『わたくしが樹木であれば』(青磁社)