日記

とみいえひろこ/日記

2022.06.06

「私が熟れた季節」を観た。とっても好きで信頼している三宅監督がすすめていたもの。罠みたいな日本語訳のタイトルで、なんだかわたしたちは自覚しているよりずっと多く見た目や名前にほんとうにころっと騙されているんだろうな、すごい滑稽だな、と思う。いろんなことがほんとうにわからないなあと思う。何も、誰も、ほんとうのことはわからない。

 

今自分が思っていると思っていること、見ていると思っていること、そういうことにしておきたいこと。自分で自分に翻弄されているこの場所が居心地良く、抜け出せない、そのことについて、ずっと話している、そのうちに、もとのところがわからなくなってしまった。と思う。誰の何のために自分がそう思っていると思っていたのだったっけ…?

クラリッセ・リスペクトル 福嶋伸洋・訳『星の時』(河出書房新社)。文体にか、この人の生き方・生きられなさ・生きることの受け止めにくさにか、語り手、視線の持ち主の真面目な、浅はかを憎むような、遠いような、さびしいような、何か惜しいような切ない観念にか、ひとこと、ひとこと、引き込まれて読んでいる。でもこれも、リコメンドにのっかって読んだらとても引き込まれた、というもの。「私が熟れた季節」はこの人の作品が映画化されたもの。

胸のなかの馬のことと、教室でこどもたちに伝えていた詩のこと、彼女の「したくなさ」、その伝え方、表し方、飲み込み方。それらがわたしには身に沁みた。なんで自分が今観たんだろう、と考えたくなる。

今表されているものと今出会って今それを受け取るという作業はわたしにはとてもきつく、愛憎入り混じる作業だと思う。力を使うものだと思う。力を出し、力をとられ、力のでどころを感じることが怖い。力がなくなったあとの空間がまだ残っていることを恐る恐る知る。

調べたいことがあり、人の日記を読む。公開されているから読んでいいものだ。それでも後ろめたく、なんか時間かかる、と思う。同時に、何かを知りすぎるなどということは絶対にないとも思う。人は他人のことをほとんど何も知ることができないはずだとも思う。知るのは自分の分かり方のことばかり。