日記

とみいえひろこ/日記

2022.06.14

モノと関わるときのこの人の関わり方がとても真剣で、わたしはそれを見る。正確には、直接見ていない。それを見ていた人が話すのを聞いて、あとで想像する。違う場面を見てその関わりの時間を想像する。その関わり方を見て、思うことがある。わたしは、ここから判断したらいいと思う。

いつも、ほんとうに助けてくれた人は、身代わりになってくれた人だった。身代わりになってくれた人はつぶれてしまったからもう会えない。

だんだん、こちら側の世界の成り立ちが見えてくると、それがわかる。聴くべきだったのは、父親役の人でも、母親役の人でも、兄でも姉でも弟でも妹でも、遠い血縁関係にある人でも他人でも恋人でも友達でもない、同じものを別の場所で見てきた人の言葉だった。その人がどうにかしてここまで来てくれ、自分を差し出し、自分をつぶしていくという関わり方をした。その関わり方によって、はじめて、この人は関わり方をおぼえた。それ以外の関わり方は、さまざまな理由で、どうしてか、やっぱり無理だった。響かなかった。この人をどんどん追いつめた。

乗り越えたのに、身代わりになってくれた人はまた同じものを見なければいけない。もっときつい関わり方を、ひとり自分のためにしないといけなくなった。身代わりを待たずに待つ、そういった時間と環境をつくらなければいけなくなった。

時間と環境がつくれても、優しすぎて身代わりの身代わりになろうとしてしまうこともあるかもしれない。身代わりたちとはもう会えないものだけれど、ほんとうにあなたが助けてくれたのだと、助けてくれつづけているのだと、わかっているだろうか。

田中康雄さんの本を読んで、いろいろ思い出してしまって、いつの誰のためにか悲しんで悔しんだ。もう思い出せないことも。

田中康雄『支援から共生への道 発達障害の臨床から日常の連携へ』(慶應義塾大学出版会)

精神科医は身代わりになってはいけないのだけど、何度かを一緒に死んで、もう一度別のところで生きるということをできるだけ穏便に経験していける環境づくりの、大きな支えの仕事をすることはできる。タイトルに「共生」という言葉が入っている意味を、そんなふうに読んだ。

そして、身代わりには身代わりの、それは、もう、とても輝かしく、ひそやかで、あたたかな、さびしい、これからがある。