日記

とみいえひろこ/日記

2022.07.04

「心のカルテ」マーティ・ノクソン監督。

回復や選択についての、物語についての物語。こういう状況なら、こういう条件が重なったら、それはこうなるよね、そっちを選択しちゃうよね、どんどんはまり込んでいってしまうよね、体を使って、そこにあるかもしれない答えを求めに行ってしまうよね、と思う。

どこでも、誰にでも同じようなことが起こっていて、そこにない答えも、健全なほうの答えもわかっている。同時に、そうとわかっていながら自分で自分に見合う答えまでのすじみちを経験するしかない。

大人になった彼女が膝にもたれてミルクを飲ませてもらうシーン。このシーンはとても儀式的で象徴的で、普遍的でもあるし、陳腐でもあった。人というのはこの程度のもの、こんなに真面目でいたいけで敬虔ともいえるし、こんなに弱くて簡単なものともいえる。この仕方なさを自分のこととして受け入れ、儀式に込められているゆるしと諦めを通して人と何かしらのつながりを持つこと。つながりを持つためにバラバラで孤独な自分の存在を認めることが、区切りとして必要だった。

回復を選ぶときというのは、「子」が「母」をゆるすときであり、「母」の中にいることを諦めるときであるのだと思う。ばらばらになってひとりになるときであるのだと思う。子が母から生まれる以上、回復にはどうしてもこのすじみちしかないのかも、と思うけれどどうなんだろう。もちろん「子」や「母」は記号で、意志とか意外性とか裏切りとか、そのときによっていろいろな言葉に置き換えられる。

回復を選ばなければ病んでしまう。病むことによって生き続けてしまうという無理に自分を捧げてしまうか、回復を選んでひとりになり、生きて死んでいくという流れに身を任せて「楽に」「自然に」なるか。

病むことはなんだか画一的でどれも同じ、たとえば苦しさもつらさも、自分から生まれたとものだと信じて発言するどの発言も、自分の何もかもが何かしらの型にはまってしまっていくことの不自由さがすごくあるように感じる。

そこを抜け出すために通っていくときにいくつか出会う標がある。その標との出会い方にはいつも作法がある。この感じをわたしは儀式的だと感じるのかもしれない。飲み込まれそうで怖くても、負けて受け入れて儀式と切り結ぶうち、その経験の積み方が彼女の「様式」になるのかもしれない。ということを考えた。

 

・ルークの部屋の感じ、つまりルークの世界観、わたしのそれとぜんぜん違うけれど完璧に美しくてふわあっと引き摺り込まれそうになった。魅力的だった。

ベッカム医師が名づけ直すことは父親的なことで、疑似恋愛の危ない橋を通って彼女はいったんそれを受け入れる。方法はいつもいくらでもあるけどそのときそのときでひとつしかなく、騙すことも殺すこともそのなかに含まれる。ぎりぎりに詰めていく方法しかなかなかうまくいかないなと思う。