日記

とみいえひろこ/日記

アーサー・クラインマン  江口重幸 五木田紳 上野豪志/訳『病いの語り 慢性の病いをめぐる臨床人類学』(誠信書房)

アーサー・クラインマン  江口重幸 五木田紳 上野豪志/訳『病いの語り 慢性の病いをめぐる臨床人類学』(誠信書房

 

慢性であるということは、単に、ある孤立した個人のなかで起こっている病理から直接の結果として生じるものではない。それは他者との特有な関係をもち、緊張した状況の下で生活することから生じた帰結

として、「疾患」としての痛みの内容に基準を置くのでなく、ある痛みが「慢性」で、個別の、かつ全体的な経験としての「病い」の表れによるものかどうかという基準によって、聴かれ、翻訳され、解釈される営みについて書かれている。それらの営みを引き起こす「痛み」「病い」について、書かれている。

痛みというものが、本人のなかではそれしか考えられないくらい確実なことであるのに、外からみるととらえようのない、疑いをさしはさむものであること。そのあいだをつなぐものがなく、裂け目の深いもの、不可解なものの象徴として痛みが生き延びてしまうこと。だから、痛みをどう読み解くかが大事になる。個別具体的な痛みを個別具体的に、誰がどこからどう読み解くかが。裂け目や不可解といったものにできるだけ誠実に応じる方法として、読み解き方がおのおのだということが大事になる。

痛みというものがもしかしたら幻でも、過去のことでも、彼女の身体を通してしか感じられないそれが彼女にとってどのように痛いのかを語ることが、そのまま彼女の症状であること。彼女そのものであること。私のなかでそれがどのように痛むのか、私はそれをどう解釈し、どうつきあうことに決めたか、決めざるを得なかったか。それがそのまま私になるということ。

たとえばそれが痒みだった場合。恥ずかしい、情けない、ないはずなのにあってしまう、痛みにさえなることのない、何の意味もない痒み。たとえばその評価がそのままわたしであっただろうし、それにどう応じたか、どう応じざるを得ないと受け取ったかということもわたしを表している。消えたのかもしれないそれは何だったのだろう、たしかにあったはずなのに。わたしにとっては、わたしにとってだけは、わたしにとって、しか。

痛みは時間を超えてその人のなかをさまよい、生き延び、内から焼き尽くそうとする。出てこようとする。と誰かは言った。彼が、彼の身体であると同時に彼でないものを所有し経験するとき、彼にとって痛みはどういう存在であるか、どういう意味をもつのか。支配されている場所から支配されている言葉で語るとき、痛みは内なる痛みという意味を帯びる。

 

でもそのせいで私は変わりました。何か悲しい傷ついた感じが心のそこに埋れているようでした。心の奥底にです。内なる痛みです。何年ものあいだ

 

涙を流すというよりも、声をあげて思い切り泣きました。心から悲しく思ったのです。

 

患者は、慢性の症例として行為することを身につける。家族やケアをする人も、患者の見方と同じように、彼を慢性の症例として扱うことを習得する。

 

喪失、死が意味をつくりだすということや、慢性の病いがそれ独特のリズムと循環を繰り返すゆえの扱いにくさのことも書かれていた。

「慢性の病いをもつ患者のケアにおける実践的で臨床的な方法論」として、「共感的な傾聴、翻訳、解釈」が挙げられていた。じっさい、それがすべてで、それしかないのではないかと思う。

 

精神の奥深くには、病いの経験を作り出し、増大させる、自己破壊的な心的な力が宿っているが、それを言い表すのに、抑うつ、不安、罪責、怒りなどの用語は不十分

 

言葉にほんとに意味がないことを、最近よく実感する。言葉という箱があって、それらをその場に合う言葉になるように互いに寄せていくことであいだに発生するかもしれない何かに期待をかける、または読み解こうとする、ということを、私たちはやっているのだと思う。たとえば「ケア」と言って、そこには何もない。「仕事」とわたしは心のなかで何度も言って、そこには何もなく、意味が変わり続けていることだけをわたしは知っている。わたしにとって、だけ。

言葉が通じ合うことはめったにない、そのなかで、ごくたまに、ほんとうのことを話している感じがただようときがある。そのとき、私は何かに触れているという感じがする。既知の、内側で生き延びるあの痛みでなく、何か知らない、あたらしい、古い、痛みかもしれないもの、痛みでないかもしれないもの。まだ名もなく読まれてもいない、外側のもの。「いつ」という時間だけでなんとなくつながっているような、小さなわたしという存在がいないと成り立たない「時」や「世界」と呼ばれてきたものにふれる。