あまりに夜の冬の街がきれいだったので、はじめて夜走った。今暮らしているところは、水が多い。ビジネス街に近い。夜は筋肉が軟らかいと聞いていたけれど、ほんとうに軟らかくて朝と全然違うのでびっくりした。きれいだなーと思いながら、あたたまるために走って、幸せだった。日中に水のことについて話していたので、いろいろ混ぜて思った。
自分に合ったペースを見つけるというのはものすごく難しいと思う。無料のアプリで設定している月ごとの総距離数を達成したいがために、1月はこのあと毎日走らなければいけないけれど、走らないだろうけれど、自分にはそのくらいのペースが合っているのか、逆に体を痛めたりすることになっているのか、どうなのか。
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彼が生まれる前、せっぱつまって、さがして読んだものたちがあった。この世のあらゆる、もっとも悲惨で非情で、残酷なことを知っておかなければと、つよく思っていたのだった、自分なりに。それらを読み終わるまでは生まれない。自分に合うものが、ある役割を得るはずの自分が必要としているものが、この世界のどこかにあることは分かっていた。こぼれ落ちられない、と分かっていた。
近そうなものを手に入れて読んだ。そのときの思い方でいつも思えればいいなと思う。どうやったってこぼれ落ちられない自分のために、くっついてあわれむのではなく、突き放してそう思っていた。自分が生んだあとの時間のために、自分が思うことを思っていい、誰に言われようと自分がそう思うことが今自分には必要だから、そういうことにしないと話が進まないから、と思っていたと思う。
ここ最近は、それらの時間が何だったのか確かめたいような、何か悔しさに似た感情で、悲惨や非情や残酷を買い戻して読んでいる。その頃に読んだのに読まなかったものを読んでいるように思う。その頃のようには読めないんだと思う。もっとちゃんと読んでおけばよかったと思う。
この時間が何になるんだろう、やりすごしたいだけだった/だけの、膨大な時間は、わたしにとっていま何なのだろう?
彼の喜びも苦しみも、暗く沈んだ雰囲気ではなく、そこにふさぎこむ余地はなかった。でも、もしふさぎこむことがムーアの言う「後」に至る架け橋だったとしたら?
彼にこの質問はしなかったが、それは悲しみのように常に存在していた。
ビフォータイムとアフタータイム。アフタータイムにいる者と、ビフォータイムにいた者の会話。話す言葉を汲み上げてくる場所がお互い違うから、会話はずっと噛み合わない。ビフォータイムでそうであったように。アフタータイムで永遠にそうであるように。いない、ということだけがある。または、「いないことこそがいる」ということにしてもいい。空っぽの今が、噛み合わないまま生まれて消えてゆく場所。時間のない場所の話。アフタータイムに生き残るのなら、「後」に至らないという選択はない。その選択からこぼれたものが、こぼれつづける場所。ふさぎこむにはふさぎこむための場所がないとふさぎこめない。ふさぎこむ先としての場所があるとしたら、それはどこだろう、わたしにとって。
訳者解説もとてもよかった。
イーユン・リー 篠森ゆりこ 訳『理由のない場所』(河出書房新社)