日記

とみいえひろこ/日記

2023.05.25

河本真理『切断の時代 20世紀におけるコラージュの美学と歴史」、田中純『「かげ」の芸術家 ゲルハルト・リヒターの生政治的アート』、アリス・ウォーカー  風呂本惇子・楠瀬佳子/訳『アリス・ウォーカー短編集 愛と苦悩のとき』、ウィニコット 井原成男・斉藤和恵/訳『両親に語る』、ティリー・ウォルデン『are you listening?』、チャットラウィー・セーンタニットサック『花、ドア、花びん、砂、大きな木』(はじめてのタイ文学2021)、ティム・バートン 序文 マーク・ソールズベリー 矢口誠/訳『ティム・バートンのコープスブライド メイキングブック』、和田まさ子『軸足をずらす』、アルフィアン・サアット  幸節みゆき 訳『サヤン、シンガポール』、『広告』、など。

 

怖いもの、虐げられている状況、それを読むことで受け取り、返すこと。または、罪悪感という能力につながること、嫌な方法を一時的にとってでも、その能力につながっている場所を確認し確認して、内部から動いているものを見ること。一時的に、ということは、時間が流れていて連なっている、その中に自分もいるということを知ることでもある。出られなさを味わうことでもある。

ないのに、受け取ってもいないのに、受け取りそこねたもの、ないから、どこかに溜まってしまうもの、生き延びてしまうもの。生き延びてしまう、という方法。「のに」や「から」が余って余計に押し出されてしまうもの、「どこかから」押し出されてしまうし、自分が押し出してしまうという理解はあって、「どこへ」がない。その「なさ」。「どこへ」を託されていると振り返り、振り返ると、託したものはどこにもいない。通じていない、何も通じていなかったんだな、いつもそうだった、と思う。誰もが、思うのと同じに。安心と同時にこのままずっとそこまでいけないような、自分のままでは何をどう工夫しても無理だと、分かっているのに可能性があることにしておかないといけない事情を全員でまもっているような。

ただ、通じないんだな、これからも、というのを自分だけは正直に自由に思っていたいし、その制限をはっきりさせつづけることが外向けに必要だと思う。それでやっと、外ができて、内が出来るとも。

 

>青年期のぼくにとって、モンスターたちが苦痛に満ちた悲劇的な死を遂げるのを見ることは、ある意味で自分の感情を解放する手段のようなものだったのかもしれない。

ティム・バートン

 

ものごとがつづくなかで、感情を利用して乗り越えていくタイミングがどこかである気がする。感情は「自分に酔う」感じが嫌、嫌で嫌で嫌。でもそれが、「use」、あるものを使い果たす、使い果たして破壊してでも生き延びていくこと、そしてあとから振り返ってそれを自分で選んだと認めること、とつながるのかもしれない、と思った。