日記

とみいえひろこ/日記

2023.06.06

昔付き合っていた人を見かけたかもしれない。でもたぶんこんなところにいるはずはない。けど、そうかもしれない。もうずいぶん経ったからお互い顔つきも変わっているし、よく覚えていないけど、こういう感じに歳をとったと言われれば納得する。ここにいるとしたら、仕事で来ているのかもしれないし、ああ、同じ仕事続けているんだな、それはよかった。と思った。声をかけようか迷ったけど、ほんとに分からないし、結局声をかけずじまい、分からずじまい。やっぱりたぶん、違う人のような気がする。

もしこの人と別れずにいたら今頃どうなっていただろう? と数秒思う。結局のところ、自分が味わう感情や思いはさして変わらなかっただろう。状況も同じこと。変わっていただろうけど、今自分が経験していることと何も変わらないだろう。

 

さんざん、私のいろいろなところが間違っているはずだからそこを見つけてほしい、教えてほしい、答えを教えてほしい、合っているか判断してほしい、違うなら正してほしいと、さんざん私は確認したがった。それが必要だと当たり前に思っていたから、自分のなかにいつもこの前提があることをはっきりとは伝えなかった気がする。誰も結局教えてくれない、駄目と言ってくれないで、それも私はどこかで分かっていたはずだ。では何をうったえていたのだろう。どちらにしても、もう、仕方がないんだと、そういうものらしいのだと、飲み込んでいる途中。無理ならそこに時間をかけても仕方ない。

確認する過程が果たせなかった「甘え」の経験だったといえる気もする。

ひとりでひとりを抱えて態度をとりあえず決めていかなくてはやってられないみたいだと、間違っていても、それは仕方ないみたいだと、実体の分からないものを受け容れている途中、受け容れ方も分からないものを。仕方ないではすまないけれど、それでも仕方ないみたいだ。

 

 

けれどもわたしが見守っているのは、わたしが恐れているのは、彼女の傷ついた言葉が停止することだ。

 

言葉になる時点でいつもそれは傷ついている。傷だらけ、傷がついているのが言葉。見守るということは来たるべき恐ろしいことを知っているということ、必ずそれが来ることを知っているということ。私は知らないと強く思いながら、それ以上知り得ないくらい絶妙な感じで知っているということ。

見えているものもまた。私に見えているものは傷ついていて、その範囲私に責任があって、いつか死んでしまうもの。見えているものはなお私の前に曝されて傷ついているから。傷つきつづけていると私は知っているはずだから。いまだ見えていないもの、いまだ言葉にもなっていないもの、私と一体化しながら受け止め受け止められるという経験を学んでいるもの。私と出会うべきもの。いずれ離れて私ではなくなるもの。私が私の独特のやり方で傷つけるだろうもの。

 

彼女の笑いを受け止め、それを自分のものにすることによって、わたしはまるで彼女の言葉を捉え、それを繰りかえしながら、そこにわたしの言いたい気持ちを注ぎこむかのようだ。言語というものの大部分は、この模倣[mimetisme]の上に成り立っているのではないだろうか。この模倣によってお互いしゃべれるようになるのではなかっただろうか。

 

大半のことはわたしの目の届かないところで起きているということを忘れてはならない

 

劣化そのものを彼女が知に差し出すことを手伝いたい。精神生活がどのように構成されているのか、わたしたちの精神が、その本質的な可動性をもって、たえず動いているその実体をとおして、どのようにして世界の現実の安定したイメージを構成するのか、そしてどのようにしてそこに住むことを可能にするのか

 

受け止め、経験、統合、距離感や時間を知ることによって生み出す空虚、必要で作り出してしまうフィクション、遊び、排出、話すことで他者をつくること…発達と、その逆を辿ることで捉え直してしまうものについて。捉え直す際に初めて必要で生み出す独特の自由さ、その手ざわりについて、初めて言葉を生み出すようなやり方で書かれていた。

 

ピエール・パシェ 根本美作子/訳『母の前で』(岩波書店