日記

とみいえひろこ/日記

2023.06.10

・何周目かのはじめにもどって。尽きた、終わった、というところにいて、最近思う適切な関わり方、見方のキモは、彼の「ゆっくりさ」をどのくらいの深さで、どのくらいのいろいろな目で、適切に理解して合わせられるかということ、そのための自分の時間をどう理解して何にどう充てられるかということ。

 

「マドンナ」シン・スウォン/脚本・監督

 

・香りがあって、画面のなかだけで、共犯者だけでそれは共有される。観る私には見えない、届かない、伝わらない。

 

・見る者は、共犯者であり証人でもある。別の共犯者でもあるし、別の者の証人でもある。

 

・見る者の見方によって何がどう生き残ることになるかが変わる。見る者が何を経験してきて、見てしまったものと何がどう響き合うか。どこを見て気づいてしまうか。

それは、見る者自身が何にどう見られているかによっても決まる。見ることは侵食すること。見られることによってどう踏み込まれているか、何を踏み込ませずまもっているか。

 

・名前がつけられていても、症状に名前がつけられていても、その実体は名付けられた者だけが決めていく、知っていく。それになっていく。もともと名前のない状態で抱えていたものと、侵食されてできるへこみや傷との複雑な組み合わせによって、独自のスタイルになっていく。

 

韓国映画の独特だと思うところ、追い詰めていくところで嫌というほど寓話的に人工的に傷を開き、傷のなかに入り込むように見せていくところ。全部言葉にするところ。その時点で、見る者見られる者の役割がよりはっきりしてしまう。役割がはっきりするということは時間性や見る側の立っている舞台の現実感が意識されるということ。追い詰めていくカメラのこちら側の私、傷をひらき見る私を突きつけられるということ。を意識する私を突きつけられ、余裕がなくなるところ。ひとりで怖い思いをしなければならないところ。

ひらいて入り込んで言葉にしてなお、なおというかさらに、ひらかれ入り込まれ言葉にされた側のスペースが画面の向こうには残っているような気がする。向こうのことを、何も知らない私。観るこちら側は、突きつけられどんどん余裕がなくなる。自分のスペースが奪われ、自分ひとりになる。向こうにいる者とも、誰とも、一体感をもつことを許されない。許されないでなお残ってしまった自分ひとりの、相手がいないから響き合わない余韻を、味わわざるを得なくなるところへ連れていかれる。連れていかれる場所はいつも、もともと自分のいた場所と同じところ。

2023.06.08

人はどんなやり方をしても救われないが

わたしたちにそれが必要なのだろう

なにを浴びても

外にものごとはないという度量で

川は外を流れている

 

「長い橋」(川田絢音『雁の世』)

 

 

「怪物」観た。映画観に行ったのほんとうにほんとうに久しぶり。観に行った方が良い状況になったと感じたから、こういう時間をこれからもつくろうと思った。

私も、ずーっと考えてしまう。

・時間がどう動いているのか、どうつながっているのか、どういうルールなのか、掴めないで、思い出そうとする。思い出そうとする力が自分のなかに残る。

・穴。出てきてはいけない穴。のぞくもの、のぞかれるもの。のぞくものには、何も見えていない。燃えていたのが、金閣寺みたいだった。

・人のことはほんとに分からない。絶対に分かり合えない。通じた感じがあっても、ぜんぜんほんとうは違うんだ、愕然としながらそれだけを思って帰った。

・何か持っている子、と分かる子。そのひとりの子だけが、私には、ほんとうのことを言葉にしているようにどうしても思える。と書けば、ずれてゆく。「出てきてはいけない」という理屈がその子にはないから内面がそのまま外に出て行く。それだけのこと。

ほんとうのことが言葉になっていることというのは本来あり得ないことで、その子だけ別のルールに沿ってあり得ている。そして、実際に、世の中はそうなのだと思う。「真実」を、何かもっている子に負わせすぎているということ。都合よく言葉になるものが「真実」と呼ばれ、「幸せ」もそれくらいのこと。

・内から聞こえていたのか、外から聞こえていたのか、聞くというのは内から出ていくことなのか、外を抱きこむことなのか、風の音があって、火の音があって、誰にも言えない声があって、物語は終わる。

終わる。でも、それでも、ぜんぜんそれではだめなはずなのに。ほんとうにぜんぜんだめで、ゆるされないはずだ。それでも、全員が絶妙に自分にとって楽な解釈をしながら生きていく、生かし合っていってしまう。それでいい、ということはないのに。残酷で、ほんとうに残酷だ、と思う。

 

 

鄭智我 橋本智保/訳『歳月』、中島義道『差別感情の哲学』、武井麻子 深沢里子 春見静子『ケースワーク・グループワーク』など。

2023.06.07

独立して5年目に入って嬉しい。仕事の関係で見かけた小さいオブジェみたいなのが気になって買っていたのが、今日届いた。砂時計の、砂でなく泡のバージョンのもの。点滴の音みたいな、心臓の音みたいな、外の大雨の音と一緒になって落ち着く。自分のもので、何のためでもないものにお金を払ったのがほんとうに久しぶりな気がする。

2023.06.06

昔付き合っていた人を見かけたかもしれない。でもたぶんこんなところにいるはずはない。けど、そうかもしれない。もうずいぶん経ったからお互い顔つきも変わっているし、よく覚えていないけど、こういう感じに歳をとったと言われれば納得する。ここにいるとしたら、仕事で来ているのかもしれないし、ああ、同じ仕事続けているんだな、それはよかった。と思った。声をかけようか迷ったけど、ほんとに分からないし、結局声をかけずじまい、分からずじまい。やっぱりたぶん、違う人のような気がする。

もしこの人と別れずにいたら今頃どうなっていただろう? と数秒思う。結局のところ、自分が味わう感情や思いはさして変わらなかっただろう。状況も同じこと。変わっていただろうけど、今自分が経験していることと何も変わらないだろう。

 

さんざん、私のいろいろなところが間違っているはずだからそこを見つけてほしい、教えてほしい、答えを教えてほしい、合っているか判断してほしい、違うなら正してほしいと、さんざん私は確認したがった。それが必要だと当たり前に思っていたから、自分のなかにいつもこの前提があることをはっきりとは伝えなかった気がする。誰も結局教えてくれない、駄目と言ってくれないで、それも私はどこかで分かっていたはずだ。では何をうったえていたのだろう。どちらにしても、もう、仕方がないんだと、そういうものらしいのだと、飲み込んでいる途中。無理ならそこに時間をかけても仕方ない。

確認する過程が果たせなかった「甘え」の経験だったといえる気もする。

ひとりでひとりを抱えて態度をとりあえず決めていかなくてはやってられないみたいだと、間違っていても、それは仕方ないみたいだと、実体の分からないものを受け容れている途中、受け容れ方も分からないものを。仕方ないではすまないけれど、それでも仕方ないみたいだ。

 

 

けれどもわたしが見守っているのは、わたしが恐れているのは、彼女の傷ついた言葉が停止することだ。

 

言葉になる時点でいつもそれは傷ついている。傷だらけ、傷がついているのが言葉。見守るということは来たるべき恐ろしいことを知っているということ、必ずそれが来ることを知っているということ。私は知らないと強く思いながら、それ以上知り得ないくらい絶妙な感じで知っているということ。

見えているものもまた。私に見えているものは傷ついていて、その範囲私に責任があって、いつか死んでしまうもの。見えているものはなお私の前に曝されて傷ついているから。傷つきつづけていると私は知っているはずだから。いまだ見えていないもの、いまだ言葉にもなっていないもの、私と一体化しながら受け止め受け止められるという経験を学んでいるもの。私と出会うべきもの。いずれ離れて私ではなくなるもの。私が私の独特のやり方で傷つけるだろうもの。

 

彼女の笑いを受け止め、それを自分のものにすることによって、わたしはまるで彼女の言葉を捉え、それを繰りかえしながら、そこにわたしの言いたい気持ちを注ぎこむかのようだ。言語というものの大部分は、この模倣[mimetisme]の上に成り立っているのではないだろうか。この模倣によってお互いしゃべれるようになるのではなかっただろうか。

 

大半のことはわたしの目の届かないところで起きているということを忘れてはならない

 

劣化そのものを彼女が知に差し出すことを手伝いたい。精神生活がどのように構成されているのか、わたしたちの精神が、その本質的な可動性をもって、たえず動いているその実体をとおして、どのようにして世界の現実の安定したイメージを構成するのか、そしてどのようにしてそこに住むことを可能にするのか

 

受け止め、経験、統合、距離感や時間を知ることによって生み出す空虚、必要で作り出してしまうフィクション、遊び、排出、話すことで他者をつくること…発達と、その逆を辿ることで捉え直してしまうものについて。捉え直す際に初めて必要で生み出す独特の自由さ、その手ざわりについて、初めて言葉を生み出すようなやり方で書かれていた。

 

ピエール・パシェ 根本美作子/訳『母の前で』(岩波書店

 

2023.06.02

ピエール・パシェ 根本美作子/訳『母の前で』(岩波書店)、鵜飼哲/編『動物のまなざしのもとで 種と文化の境界を問い直す』(勁草書房)、『現代アメリカ黒人女性詩集』水崎野里子/訳(土曜美術社出版販売)、石井美保『たまふりの人類学』(青土社)、など。すっごくぱらっと。すっごく重く、慎重にいかなければいけない期間。時間が、とても、ない。時間を生み出したいくらい、ない。怖いものを読みたい、観たい。

2023.05.30

向き合うにしても、向き合わないにしても、すべてのいとなみは向かい合ういとなみ。ということを思いながら過ごした。過ごすうち思った。どこまで、どうやって、受動的になれるだろう。これはずっと。

目の役割。迂回する、閉ざす、戻ろうとする、縋る、寄る、避ける、睨む、恨む。目はさまざまなところへ置かれる。ものを見るたびに、ものをそのものの示す方法で見ようとするたびに、ものを見まいとするたびに、さまざまなところに視座が出来てしまい、目が現れる。現れてしまうというそのいとなみはすべて、向かい合い受け止めざるを得ないということから逃れられないいとなみ。

そうして内側が出来る。内側には、それぞれがさわだってふくらんで、こぼれそうな声が重なっている。自分ではないもの、受け入れられずじまいのすべて。内側と外側を渡る淡々とした作業のうちに、危うく漏れ出そうだった声が止む。目と手の作業。

 

生き延びるということは、他者となんらかの関係をつくることだから、他者を生かすことにもつながる。人は概念を持つから、自分が出会う相手に、自分の存在自体が何らかの「意味」を見出させてしまうし、相手の「価値観」をかたちづくる材料のひとつになる。自分が相手の「意味」になってしまうのを誰も避けられない。
「生き延びる」ことがいいことか悪いことかは分からないけれど、「意味」という概念を利用してでも生き延びる、ということは、動物的な意味でも、人間的な意味においても、自分の「責任」ではあるのかな、と思う。そして、「責任」を放棄するという一滴の「自由」は残されている、と気づく。理屈上。でもそれはたぶん、ほんとうに自由に手にするにはそうとう難しい自由で、「夢」とか「目標」とか「嘘」とか「生きがい」とか「あこがれ」とか、絶対必要だけど絶対一滴しか味わえない「毒」とか「真実」とか、そういう意味で見ることがゆるされているものだと思う。

 

 

澄田広枝『ゆふさり』(青磁社)、石川清子『マグレブ/フランス 周縁からの文学 植民地・女性・移民』(水声社)、ジャン・マリ ロラン フレデリック・スモワ 稲松三千野/訳『誰か死ぬのを手伝って 闘う障害者はなぜ安楽死を選んだのか』(原書房)、など。押見修造『血の轍』16巻もさっき読んだ。同じこと考えていた!とか都合よく思う。チョン・ジュリ/監督・脚本「私の少女」。

 

 

2023.05.25

河本真理『切断の時代 20世紀におけるコラージュの美学と歴史」、田中純『「かげ」の芸術家 ゲルハルト・リヒターの生政治的アート』、アリス・ウォーカー  風呂本惇子・楠瀬佳子/訳『アリス・ウォーカー短編集 愛と苦悩のとき』、ウィニコット 井原成男・斉藤和恵/訳『両親に語る』、ティリー・ウォルデン『are you listening?』、チャットラウィー・セーンタニットサック『花、ドア、花びん、砂、大きな木』(はじめてのタイ文学2021)、ティム・バートン 序文 マーク・ソールズベリー 矢口誠/訳『ティム・バートンのコープスブライド メイキングブック』、和田まさ子『軸足をずらす』、アルフィアン・サアット  幸節みゆき 訳『サヤン、シンガポール』、『広告』、など。

 

怖いもの、虐げられている状況、それを読むことで受け取り、返すこと。または、罪悪感という能力につながること、嫌な方法を一時的にとってでも、その能力につながっている場所を確認し確認して、内部から動いているものを見ること。一時的に、ということは、時間が流れていて連なっている、その中に自分もいるということを知ることでもある。出られなさを味わうことでもある。

ないのに、受け取ってもいないのに、受け取りそこねたもの、ないから、どこかに溜まってしまうもの、生き延びてしまうもの。生き延びてしまう、という方法。「のに」や「から」が余って余計に押し出されてしまうもの、「どこかから」押し出されてしまうし、自分が押し出してしまうという理解はあって、「どこへ」がない。その「なさ」。「どこへ」を託されていると振り返り、振り返ると、託したものはどこにもいない。通じていない、何も通じていなかったんだな、いつもそうだった、と思う。誰もが、思うのと同じに。安心と同時にこのままずっとそこまでいけないような、自分のままでは何をどう工夫しても無理だと、分かっているのに可能性があることにしておかないといけない事情を全員でまもっているような。

ただ、通じないんだな、これからも、というのを自分だけは正直に自由に思っていたいし、その制限をはっきりさせつづけることが外向けに必要だと思う。それでやっと、外ができて、内が出来るとも。

 

>青年期のぼくにとって、モンスターたちが苦痛に満ちた悲劇的な死を遂げるのを見ることは、ある意味で自分の感情を解放する手段のようなものだったのかもしれない。

ティム・バートン

 

ものごとがつづくなかで、感情を利用して乗り越えていくタイミングがどこかである気がする。感情は「自分に酔う」感じが嫌、嫌で嫌で嫌。でもそれが、「use」、あるものを使い果たす、使い果たして破壊してでも生き延びていくこと、そしてあとから振り返ってそれを自分で選んだと認めること、とつながるのかもしれない、と思った。