やっとMacの環境を変えつつある。やっと、銀色の長い机と椅子。あとはおそらく、ハブが届いたら自動でいかなかったデータをちゃんと移行して、Luna Displayも使えたらいいと思う。意識して古典、古典なのだろうか、戸田ツトムさん、永原康史さん、久保田晃弘さん、鈴木一誌さん、などの思想をひらいている。claudeとずっと同じことばかり話している。恐ろしすぎて。座り方を変えたので腰のための道具も変えた。
暑くてぼろぼろでもある。
このあたりで一息入れましょう、と歴史であるそのひとは言った。気持ちのいい天気ね。この傑作のことをもう少し考えてみましょう。たぶん一つも類例がない作品だから。いいえ、類例が一つもないことは確かだから。たっぷり時間をかけましょう、と歴史であるそのひとは言った。時間は私たちのものだから。
シャルル・ペギー 宮林寛/訳『クリオ 歴史と異教的魂の対話』
時間は歴史のもので、わたしのものではない。わたしは時間のもの。
倫理という言葉でひとが理解してこようとしてきたものと、正しい/正しくない、良い/悪い、とかの言葉でひとや私が一生懸命に考え語ってきたものはぜんぜん違うのか、と思うようになってきた。私がけっこうとらわれてきて、それをたよりにしてきただろうもの。短いか長いかはわからないけれど、私が頼りにしてきたそれらは所詮トレンドによるもので、やっぱりあまりたよりにならない。たよりにして考えたとしても、その場その場の適応を目指すための軸でしかない、ということをおぼえておきたい。同時に、「所詮」といいたくなるけれど、それはそれで、生きていくにあたって重要なものではある。でも絶対ではない。
目の右上に傷がいっていて、けんかしたみたいになってしまった。
もっと暑くなると思っていたので、涼しい日々は夢のようだった。夕方から夜にかけて、驚くほど空がきれいな時間に外に出ることもあって、そのときは数秒立ち止まったり立ち止まらずとも眺めた。明日から暑いというので、これが最後なのかと思って、久しぶりに夜コーヒーを飲みに行った。七夕のイベントか何かで人が多い。はじめてテラス席にすわった。
やっぱりふらふらするしいろいろ気になるので、10月の検診まで待たず近所の婦人科の予約をした。ここは、今検診で通っている病院を紹介してくれたところで、一度診てもらったときに話したことも覚えている。人心掌握という感じの接し方も。数年経ってこういうふうに選ぶものなんだなと思う。しばらく前から明らかに1日のなかで細かく何度も、軽めの波が来るようになった。自分で思っているより集中できている時間や仕事になっている時間はかなり、かなり少ないと思う。これはきっと前からで、それがもっときつくなったかもしれないし、工夫してよくしていけるかもしれない。
犬がにおいを嗅ぐ。犬はにおいで全部を知るという、いつ誰がどういう道を通ってここに立ち寄ったか。その層を知り、言葉でないしかたで理解し、今ではないけれど出会ってあいさつをする。そのことと、寝る前に読んだような、死を生きるという生のありようのことや、ほか雑多なことを思う、思うというより囚われる。囚われながら散歩。1日経ってそこにブリューゲルのうしろ姿のことが重なる。ほかの多くのことが重なる。
大きな仕組みが変わっていくとき、残ったひとはどんなふうに考え向き合おうとしたり創意工夫したのか、ということを知りたく、おのずと探している。
息を吸いすぎている感じもあるけれど、これは(これも)思い込みなのかもしれない、という微妙なことが多い。
愛されぬものを愛すこと。世界で迷子になること。もうひとつの社会のありかた、新たな可能性、新たな語彙を可能にする錯乱の地盤を実践すること。
「奔放——可能性についての短い記述」(サイディヤ・ハートマン 榎本空 『奔放な生、うつくしい実験』)
犬って犬種ごとにほんとに似ているんだな、と犬を飼うようになって知った。あくまで同じ種、同じ系の範囲内で、すこしの違いをさまざま備えてそれぞれ育つ。種が同じだと、ほんとに似ているなあと思ってすこし長く見てしまう。散歩中、種が同じで、名前が似ている子とときどき会うようになった。母音が同じで子音が違う。音引きがあるのも同じ。
生まれつきだったり、わたしが出会う前のもっと幼い頃その子が置かれていた環境下で備えた癖や性格がある。それぞれに違う。そうして、成長するなかでそのものの本来のなにかが表れてきたり、影響し合って変わっていったりする。そのなにかや表れ方は想像もつかない。
ある年齢を境に、その子は犬に対してつよく吠えるようになった。人にはなつく。吠えはじめた最初のほうは、前に会ったときはあいさつしていたし、大丈夫なんじゃないかと(お互いを連れている人の側が)思って互いに近づいてみたりする。でもどうしても駄目みたいで、かなりつよく吠える。吠える背景に、その子にとっての多くのなにかがある。
ばったり会うことはそう多くないけれど、会うたび互いに距離をはかり合う。だんだん距離感がつかめるようになる。その子がいることに気づいたら、違いに適切な距離と思う位置に離れ、あいさつをするようになった。犬同士目は合っていて、互いにどこか、もっと近づきたいようにも見える。切ないと思う。でもこの距離がたぶんいいのだろうな、これ以上止まっていたらよくないんだろうなと思って離れる。それぞれが互いに成長して、この関係性においてこの距離、この時間をつくった。
私は、ミンこそこの物語の主人公なのではないかと思う。この物語の中ですら隅に追いやられた(ように思える)ミンの生を思うと、体が引き裂かれそうな苦痛をおぼえる。
ミンは韓国生まれの台湾国籍者だ。生まれ育った韓国ではビザを更新しながら暮らし、台湾では正社員になって生活をすると兵役が課されるためどこにも属さない暮らしを選ぶ。孤独な生に身をまかせ、寂しいのが当たり前だというかのように、台湾のある街でひとりひっそりと暮らしている。ところが自分にも大切なものがあることを知った。作中では、それを守るためにミンのとった選択についても、冒頭の遺体が誰なのか、なぜ死んだかも明かされていない。
(訳者あとがきから)
その少年は口が半開きだった。開いた唇の隙間から、曖昧な発音の笑い声が果てしなくこぼれてきそうだった。
名前:パク・ジホン
失踪場所:全羅北道南原市鷺岩洞
失踪日時:一九九一年五月一日
特徴:二級知的障害と言語障害がある
書かれたものを読むことで、書かれていないことが明らかになる。読むことは誰かの書き残したつづきを書くことと同義なのだろう。
ミンの生き方について。オギョンのずるさについて。ユジの信じやすさ、純粋さ、あこがれをふくらませて会いにいった時間に現れた互いのどうしようもなく子どもの感じ、失敗や恥ずかしさや中途半端さや、ぜんぶがつまったあの感じについて。〈子ども〉時代をぜんぶひとりで背負わなければならない、背負う力があったことについて。ヘソンはもしかしたらほかのことを背負いすぎて〈子ども〉性を背負う力は出せなかったのかもしれない。
ひとりひとりが抱え持つ複雑さがぽろぽろと書き込まれていて(本音にすこし触れているかもしれないところ、弱いところが危うくもすこしずつそのまま書き込まれていて)、ひとりひとり思い入れしてしまう。魅力的だった。