もっと暑くなると思っていたので、涼しい日々は夢のようだった。夕方から夜にかけて、驚くほど空がきれいな時間に外に出ることもあって、そのときは数秒立ち止まったり立ち止まらずとも眺めた。明日から暑いというので、これが最後なのかと思って、久しぶりに夜コーヒーを飲みに行った。七夕のイベントか何かで人が多い。はじめてテラス席にすわった。
やっぱりふらふらするしいろいろ気になるので、10月の検診まで待たず近所の婦人科の予約をした。ここは、今検診で通っている病院を紹介してくれたところで、一度診てもらったときに話したことも覚えている。人心掌握という感じの接し方も。数年経ってこういうふうに選ぶものなんだなと思う。しばらく前から明らかに1日のなかで細かく何度も、軽めの波が来るようになった。自分で思っているより集中できている時間や仕事になっている時間はかなり、かなり少ないと思う。これはきっと前からで、それがもっときつくなったかもしれないし、工夫してよくしていけるかもしれない。
犬がにおいを嗅ぐ。犬はにおいで全部を知るという、いつ誰がどういう道を通ってここに立ち寄ったか。その層を知り、言葉でないしかたで理解し、今ではないけれど出会ってあいさつをする。そのことと、寝る前に読んだような、死を生きるという生のありようのことや、ほか雑多なことを思う、思うというより囚われる。囚われながら散歩。1日経ってそこにブリューゲルのうしろ姿のことが重なる。ほかの多くのことが重なる。
大きな仕組みが変わっていくとき、残ったひとはどんなふうに考え向き合おうとしたり創意工夫したのか、ということを知りたく、おのずと探している。
息を吸いすぎている感じもあるけれど、これは(これも)思い込みなのかもしれない、という微妙なことが多い。
愛されぬものを愛すこと。世界で迷子になること。もうひとつの社会のありかた、新たな可能性、新たな語彙を可能にする錯乱の地盤を実践すること。
「奔放——可能性についての短い記述」(サイディヤ・ハートマン 榎本空 『奔放な生、うつくしい実験』)