日記

とみいえひろこ/日記

2024.02.24

そうではなくて、ひとつひとつ現れていることのほうがわたしには信頼できると思う。その現れ方や、なぜその表現がとられたか、それを今目の前にいる私がどう受け取っているか、どう受け取ってゆくことができそうか、という間のところに、何らかの名前がつけられるかもしれないし、つけられなくても、ひとつの何か、考える材料になるかもしれないし。与えられている名前やあてはまりそうな名前はあくまで記号で、便利で、相手のために必要とされるもの。今の、今だけの、相手のために。わたしのほうもそちらの名前を使って語るのが便利で内面でも使ってしまう、けれど、これではすれ違うばかり、ねじまがっていくばかり。ひとつひとつ、いい位置で、見ることができればいい、どうにかして。

 

ウォーターメロンの果汁のみずっぽさ啜りてわれは所詮身勝手

 

いつの世もこうしてひとりでいたような 真昼の息が身を抜けてゆく

 

鈴木英子『油月』

 

 

あたかも尊は誰の視界からも拒まれている文治を見る役割を背負わされてしまったかのようだった。誰が、何が、尊にそんな役目を押しつけたのか? もちろんそれは、この土地しかないはずだ。だとすれば、この土地は必ずしも文治を無視しているわけではない。拒絶しているわけでもない。そうはならないか? 尊にこうはっきり文治が見えるのだとしたら、周囲の風景が、命のあるなしを問わずこの土地の風景を織りなすすべてが、己の存在や輪郭や濃度を、かりにあるかなきかのごくわずかずつだとしても、文治に譲り渡して、そうやって文治がこの地上から消滅するのをかろうじて阻止している。そうはならないか?

小野正嗣『獅子渡り鼻』

 

『ふたつの人生』、エドゥアール・グリッサン 中村隆之/訳『フォークナー、ミシシッピ』、『フェミニスト現象学』など。

2024.02.24

『愛情萬歳』ツァイ・ミンリャン/監督。流し見してよく分からなくてもう1回見て、分からないまま。糸を引くような感じで、数日後に顔の切ない感じや、何もないひとりきりの箱の感じを思い出す。見たものが内側に入っていて、内側から思い出す。

水、流れるもの。見るものの血があって、見られるものの長い涙があって、浴室のなか、洗面所。見えないでいることでつながっているものの気配。

2024.02.23

確定申告が提出できそうで、自分で思っていたよりかなり、ものすごくがんばっているじゃないかと思った。あとで、すこしはちゃんと評価分析したい。そういう、予習復習の時間をどうにかもちたい。

2月のこの時期はとくに面談などの多い期間でもあって、うまくスケジュールできると(ほとんど自分の力でどうにも動かせない。それでも、その枠のなかで)ふだんの仕事がぽっかりあく。なぜこういう働き方をしているか、こんなに自分が働いているか、これからも誰にも言わない。

自分が購入した本のせいぜい1割くらいしか読んでいないということもよく分かった。

これはこういうもの、と、中身までもあらかじめ外側から決められ、その「困難」をどうしていくか、「どうしてあげるか」ということでは全然なくて、わたしはいつも、ずっと、「とは」が知りたく、「これは何か」ということが知りたく、進むのだけど、やっと少し進むところまで来たのだけど、それとは全然べつのところで徒労感が湯気のようにある。そこじゃないところばかりにみんなで必死になって、虚しい、ますます傷をつけ遠ざけている、わたしもまた同じ、自分こそが被っていると思える台にのっかっていっている愚かさがあり、考えを止めている理由があるのにそこを見ない見られない難しさがある。

2024.02.22

できることはやって、考えられることは考えて、伝わることは伝わって、それらがどこまでなのか、どの程度なのか、自分の位置確認や現時点の限界、つまり、境界線がなんとなくつくれて、そうやってつくる方法を理解しつつあって、あとは、わたしがほんとうに迷ってものすごくわからない残りが、それでいて手持ちの方法では誰も何も役に立たないのが、文学的問いなんだと思う。そこじゃない、それじゃない、それはやりました、それはもう試しました、書いてあって知っていて検討しました。やって、ぜんぜんそんなことじゃないと思う。枠組みにのって演じることでここを抜けられるなら、そうしている。それができないからここにいて、ここにいるまま抜けられる方法はあるはずだと知っている、思っている、そうじゃないとおかしいはずだと、憎んでいる、疑っている、構えている、何度も同じことを見て消耗している。

そのなかで、すこし方法が見つけられそうでもあって、でも、どうだろう。

野田かおり『風を待つ日の』

歌集の構成として、「季節」というルールのなかをひとめぐりして、春から春へかえってくるつくりが意識されている。と話されていた。

なら、かえってきた春、とりあえずたどりついたもうひとつの春は、決められたルール、与えられた枠組みを、少し超えたところに生まれているはずと思う。はず、と期待して読む。超えているところ、抜け出ているところ、逸れているところを読みたい。映画のように、すべてのお話と同じように、読んで自分のなかに取り込みたくなる。

行って帰ってきたとき、そこは行く前と同じ場所で、冒険者は見た目には冒険者のままだけれど、冒険者の内部はもとの自分を失い喪失を知る者になっているし、別の者として、まったく新しい自分や世界を眺めている。

そう思ってあらためて読むと、かえってきたほうの春の連作の歌に流れている、〈深く知りながらまったく知らないたったひとりの誰か〉だけに宛てて書かれたような感覚にあらためてつよく惹かれ、明るく眩しく、散らばった光と影を目に入れるような感覚になる。

 

まだそこにゐたかつたのだらう歩いても歩いても遠い春の灯台

 

写し絵ではなくひとすじの線 春雨をあなたとずつと見てゐたい

 

歌集のなかに散りばめられたオノマトペについて。意味のある言葉を自らの内部からひっぱってくるため、呼ぶための紐として、すこし吃るような思いで使われているという感じがしてきた。大人でも子どもでもなくなりたい、ちょっと意味をフラットにしたい、人を離れたがる、そういう使われ方。

 

2024.02.20

最近はすこしだけ離れたところへ買い物に行くから、考えのつづきを何度も戻って考えなおす、噛みしめなおす時間が増えているのかもしれない。自転車を漕ぎながら、信号待ちをしながら。

二月というのにあたたかく、だから涼しく感じたりして、なんでもありでなんでも起こる、くらくらするきのうの実感の続きにいたりした日。予定がつまっているからと構えていた分、余裕ができてぽかんと時間ができた。から、涼しい空気に、さびしさを掻き立てられる。誰のものでもないさびしさ。

確定申告の作業を始めたり、ふりかえりや確認の時間を持てたり、一日置いて明日決めることを一日の間で何度か考え直したり、意識的にした。一緒に準備する時間をとれるようになってきたと思う。今日のような感じの時間の流れ方が、1年に数回あると思う。

ゆるされる範囲はほんとうに広く、ただ、それは、ゆるされるというのとも違って、見逃されることがほとんど、ほぼすべてくらいなんだなということや、だからこちらがこちらの都合や考えで線を引いたり決めるんだなということを思うようになった。なんだったんだろう、何の意味もなかったな、とも思う。また、そんなものなんだとも。

 

小西真理子『共依存の倫理』、山田詠美『肌馬の系譜』、『家族の現在』など。

たとえば「症状」が「内面」や「関係性」をつくりこんでゆく、つじつまを合わせていく(誰にとっての?)。明らかになっていることや名前がついていること、理屈が通ること、見えていること。それらの元には、誰かの何かの目的や必要がある。ということはおさえておきたい。いつもあまり、ほとんどしっくりくることがない、何にも。この感じはわたしはわたしにおいて錘としてそのまま荷物として引き摺っておきたい。

 

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