拒絶への感受性、と、言葉にしたら妙な言葉だけれど、川田絢音の文章を読んでわたしが惹かれるのはそういうあたりなんだと思う。拒絶、への、感受、感受の仕方に惹かれる。だから、惹かれ方も独特でないといけないはず。
危ういものが ひとかけらずつあらわれ
受けとめ方もわからないまま
何なのかと思っているあいだだけ
存在する
(「犬が」)
もっともっと、深い拒絶。向かい合うものからの、深い絶対的な拒絶。
わたしはこなごなのがらんどう
捨てきれなかったものが
置き去りにされる
(「窓」)
もっと。
たとえば後から、「再体験、感情の解放、再統合」と理屈づけられ名づけられる回復のありかた、経験のありかた。それ以前の詩、もがく詩、理屈や名前とは深く断絶している詩。ないものを、分かりっこないものを、確かめ確かめ、唯一の守り方を見つけ出すために壊して壊して壊すような進み方の体験を促してくる詩。ないけれどある記憶の確かさのほうを信じ、撫でているような詩。何かのために確かめているんじゃない、できないために、戻れないために、絶対に受け入れられないために、向かい合うものからの拒絶を根拠にしてこちらのありかや受け入れ方をさぐる、さぐるというだけの、そういう詩。さぐりつづけるというだけで、さぐりつづけるという行為に意味が生まれてきてしまったと思えばまた退ける、そういう詩。
まだ間にあうとわたしは隣り村へ歩いて
それならできる
葦は裂けて揺れ
拾ったばかりの波形の緑の石も
なにひとつ知らされていない
すがりあってこの道を行く
(「仲間」)