日記

とみいえひろこ/日記

川田絢音『雁の世』『こうのとりの巣は巡る』

拒絶への感受性、と、言葉にしたら妙な言葉だけれど、川田絢音の文章を読んでわたしが惹かれるのはそういうあたりなんだと思う。拒絶、への、感受、感受の仕方に惹かれる。だから、惹かれ方も独特でないといけないはず。

 

危ういものが ひとかけらずつあらわれ

受けとめ方もわからないまま

何なのかと思っているあいだだけ

存在する

(「犬が」)

 

もっともっと、深い拒絶。向かい合うものからの、深い絶対的な拒絶。

 

わたしはこなごなのがらんどう

捨てきれなかったものが

置き去りにされる

「窓」

 

川田絢音『雁の世』(思潮社

 

 

もっと。

 

たとえば後から、「再体験、感情の解放、再統合」と理屈づけられ名づけられる回復のありかた、経験のありかた。それ以前の詩、もがく詩、理屈や名前とは深く断絶している詩。ないものを、分かりっこないものを、確かめ確かめ、唯一の守り方を見つけ出すために壊して壊して壊すような進み方の体験を促してくる詩。ないけれどある記憶の確かさのほうを信じ、撫でているような詩。何かのために確かめているんじゃない、できないために、戻れないために、絶対に受け入れられないために、向かい合うものからの拒絶を根拠にしてこちらのありかや受け入れ方をさぐる、さぐるというだけの、そういう詩。さぐりつづけるというだけで、さぐりつづけるという行為に意味が生まれてきてしまったと思えばまた退ける、そういう詩。

 

 

まだ間にあうとわたしは隣り村へ歩いて

それならできる

葦は裂けて揺れ

拾ったばかりの波形の緑の石も

なにひとつ知らされていない

すがりあってこの道を行く

(「仲間」)

 

川田絢音こうのとりの巣は巡る』(アーツアンドクラフツ)

小林美代子『髪の花』

「君、おかしいじゃあないか、昨日まであんなに病気じゃあないと頑張ったのに、今日、先生の言う通り全部病気でしたという、そんなに急に判るはずがない、誰かに入知恵されたのでしょう、どうして昨日まで事実だと思ったことが、今日は病気だと判ったのです。その理由を言いなさい。どうしてだね」
問い詰められて絶句した。準備のないまま切り出したので答えようがなかった。
「あのう――目が覚めたように――」
「まあ、まだ君はそれが全部病気だったとは、思っていないよ、事実だと思ったり病気だと思ったりしながら、よくなるものだからね」
先生はそう言って、隣に座っている患者に歩を移した。
病気ですと言っても受付られず、どこまでが事実か証明し教えて貰いたいが、教えてくれる人もいない。結婚もせずに一人で人生を渡ってきた自分が、今程哀れに思えたことはなかった。
案外世の中とはこんなものかも知れないと、悟るつもりになるが、それでは心の痛みが柔らがず、

「幻境」

 

世間にどう扱われようと、自分の価値を自分で見つけ、それを信じない限り、りえ子の自由に自分の道を選び出して生きる処は、何処にも本当はないのだ。
母上様、あなたは実際に私をお生みになりましたか、それがはっきりしないと、自分を確かめることができないのです。それともこう疑いながら、私は又狂い始めるのでしょうか。

「髪の花」

 

 

「髪の花」は、これを読んでいるのか読んでいないのかもしれない、いるのかいないのかもしれない、母に向けて書かれる手紙の文体、内容で貫かれている。

「母」という存在、役割が、そこにいて受け止めるということだとして(産んだ「母」でなくてももちろんほんとはいい。そういう意味の「母」ではない)、受け止め映し返すことでただただ危うく生を溢れさせつづける者自身が自分と向かい合うのを促すことだとして。

受け止めるものがいないこと、どころか、いないのかいるのかもわからないことは確かに、溢れさせつづける者自身の存在、存在「感」を危うくする。この「感」じが事実なのかどうか、受け止められずさまよいっぱなしになるものが自分のからだのなかにあることになる。

ただの「感」だから、自分でありかたをつくっていくしかないのに。

自分の生に圧倒されそうな苦しさを抱えきれないとき、自分と向き合う手段を見つける手段として、溢れた先の限界を確かめようとしたり、疑いにとらわれたり狂い始めようとするのはとても理にかなっている。理にかないすぎていてまっすぐであるところが、複雑で雑多なもの、理屈の通らないものを我が身に組み込むことを遠ざける。そういうこともどこか透明に書き込まれていて、行き場がない。

というか、受け止めるのは読者しかおらず、読者である私が、私が自覚なく/自覚しつつ溢れさせ受け止めさせてきたもの、さまざまな私の理由で受け止めるのを拒絶してきたものたちが文字に映し返されているこの姿とどう向き合うかを、この昔の文字から見られているということ。行き場がここしかない、ということ。

別の話

別の話

 

 

紫のダウンジャケットぶかぶかのゼリーみたいな子が泣いている

 

オレンジの布いちまいを透けてゆき物語る者はいつも内側

 

あの空の重たい色がたまらなく色っぽいこと指さして言う

 

ぼんやりと思い出す昼 幸福で愛するだけの手であったこと

 

東寺駅にずっと夕暮れどうやって大事にすればいいか分からず

 

世知辛い 世知辛いねと口にする隅にしゃがんで見えないままで

 

お互いに別々の話していたわたしは今すぐ黙りたかった

 

席ひとつあけて如月聞いている自閉症者の声の穏しさ

 

 

(「かばん」2024年4月号)

2024.04.20

しかし彼女は既に、ただ自らの勇気に心を向けるようになっていた。

グレイス・ペイリー 村上春樹/訳「庭の中で」

 

自分の見積もり・見通しが現実にそぐわず甘過ぎて、ぜんぜん、ものすごくスローにスローに、微々たる進み方で、1週間ほど。

ただ、そのひとの微々たる変化と、それがどう良いのかどう悪いのか、誰にとってそうか、ということも、前よりすこしわかるように思う。

現時点では、こう思うことにしておこうかな、ということを、いくつかつくる。

小田原のどか 山本浩貴/編『この国の芸術 〈日本美術史〉を脱帝国主義化する』、ジンメル『芸術の哲学』、マリー ンディアイ 笠間直穂子/訳『みんな友だち』、武井麻子『感情と看護』、『恥』、長津結一郎『舞台の上の障害者 境界から生まれる表現』、サラ・コフマン『窒息した言葉』、芹沢俊介『母という暴力』などなど。

『パスト ライブス/再会』セリーヌ・ソン/監督・脚本

『パスト ライブス/再会』セリーヌ・ソン/監督・脚本。映画館に入り座席に座るのがいつもぎりぎりになる。よかったなあと思って、やるべきことが手につかない。小品、佳品、という感じで、こういうのこそ映画館で観てよかったな。細かく気を遣っているところがたくさんきっとあって、上手すぎる技に感動したという感じ。いつも、映画も本も、宣伝のコピーは何の役にも手がかりにもならないなと思う。

 

・扉が印象的だった。「PAST」と「LIVES」の間も扉に見える。

・ノラとヘソンの訪れたところに、一定の空間と一定のカップル。それぞれのふたりの時間がありそれぞれのイニョンがあるということを視覚的に植え付け思わせる。ひとりだけ、ひとりの、すこし大きな、背中を正面に向けた男がいたように思う。もし、もし、が重なって、ひとりになった誰かの姿かもしれない、など。

・心に残っているところは、ノラが、ヘソンの「韓国人っぽい男っぽさ」を批評する場面。外へ出てきてそれを外の別の、ユダヤ人という背景を持つ彼へ言っているところ。そう感じる私自身こそが韓国人っぽいのかもしれない、という揺れも、すこし語られながら。

ほんとうは、もっともっともっと複雑ではかりしれない背景がそれぞれあってここにいる、ということが、彼ら彼女らの扉のすきまに漂っていることを思う。ヘソンのたたずまい、ヘソンの見られ方、この外国での、現在の感じがこんな感じなんだ、と、この風景ごとが今なんだ、ろうか、と、今しかこの風景を私は見ることがない貴重さを感じながら見た。兵役の期間にひとりの男が思うことは、それを経験した同士しかわからないだろう、そういうことにはっとしたりしながら。

・ヘソンもまたとてもクレバーな人だと思った。選べない、選ばざるを得ない、選ばない、そういったことを、ノラより多く持っているだろう、とどまっているだろうヘソン。ただ、それらをどう、どんなふうに受け入れるか、というところに、ヘソンだけの選択があり、それは奥深く、成熟した選択だと私はしみじみ後から思う。といっても、選択のあり方自体が、母的な、父的な、息苦しいくらいの慣習、事情によって醸成されてきたところから生み出される部分が大きいのかもしれない。いずれにせよ、それとどうヘソンが向き合ってきたかということが、ひとつひとつの言動、とどまり、選択に現れていることを思う。

・縁とか仕事とか、中国から来て韓国とかなり似た発音の言葉を私たちも使っているんだな、と思いながら見た。

・見ている、何も見えていない、距離と内面を意識させるはじまりかたが心に残る、思い出す。

ピエール・パシェ 根本美作子/訳『母の前で』

けれどもわたしはこのリストに何か欠けているような気がする。そしてそれが何なのかをはっきりさせ、それを定義する責任が自分にあるような気がする。そうでなければ、わたしは最後まで自分の役目を果たしたことにならないだろう。

 

ピエール・パシェ 根本美作子/訳『母の前で』

 

ほんとうになんでもない手続きのことでものすごく無駄な動きをして時間と手間がかかってしまった、かけてしまって、情けなくばからしい思いになった。ここ何日かは、自分の見積もりの1/10くらいのことしかできず、動けない。できるはずなのにできない。いろいろ実感した。

 

『母の前で』がとってもよくて、生き物の尊厳とは、静物の尊厳とは、存在に感じてしまう尊厳とは何なんだろうとよく考えたい気分になったり、『我と汝』を行き来してもっと行き来したらどこかへ踏み外していってしまいそうな、不思議な気分になったりする。

「母」というひとを定義するリスト、言葉でそれが確定できるとして、何かどうしても欠けているものがある気がするという(そういう文脈だったかどうか忘れてしまった)。欠けていると思うはずだという。

欠けているのは、そのひとを「母」と呼んでそのひとを見るわたしの気配、存在、そこにいるべきわたしなんじゃないかと、読者であるわたしに暗示される。暗示だと受け取るわたしが、この文章を読んだ瞬間に呼び起こされてここにいる。と気づく。気づいた瞬間にこの不思議な感覚を逃してしまう。

わたしがわからないわたし。わたしが把握できる範囲を超えた、わからない、どうしても見ることのできないわたし。目の前の対象、あなたを見尽くしても、あなたを指す言葉を尽くしたとしても、あなたという存在を知ることは決してできない、何かが欠けている、何かがあなたのエリアに残されていてわたしの手に決して届かない。それはとても決定的で、ものすごく遠い。

という直感とともに、あなたの守られるべき尊厳をやや侵食してしまったわたしの足跡、触れて残った指紋、何かがあると感じて思わず受け取るために伸ばした手の影…であったわたしの気配の気まずさ、後ろめたさ、過ちの感じが、そこへ行ききれなくてここに残る。「あっ」と思ってあなたのほうへ行ってしまったあとに取り残されてしまったわたし。時間に遅れ、取りこぼされ。

 

 

2024.04.16

ずーっと曲を流していた。分からず、当面は何の意味もない、何にもならない、しかたのないこと、どう付き合ったらよいのか分からないこと、絵、の張りつく感じが自分のタイミングによって強まる。無意味を別のチャンネルをもつもので流したりくるんだりしてなんらかの考えは進む。

いつも、この感じで、別のことも同じ、自分の見積もりが合わないなと実感しつつ抜けられず、朝妙に早く起きてゴミを出して、二度寝して起きて玄関を見たらカラスに荒らされた後だった。ただ、収集の方がだいぶ片付けてくれていたみたいで、浅い二度寝のなかでなんとなく声が聞こえていた気がしていたのはその声だったのかと思いながら掃いた。

もうひとつの、もういくつかの、もう少し先の、線を引く場所や時間や可能性も頭のなかに前より現実的に浮かんできている。そうか、と思う。ざわざわしてもう少しうまくスマートに無駄に疲れないように考えを進められたらいいのに、こんな這うような感じじゃなく、と思う、けれど、こんな感じで同時にじくじくでも、自分の思う適切なベターなところをそのたびに見つけて、できるだけ嘘をつかずばかにせず、愚かさを認め味わい、できるだけ勇気を出して誠実に行きたいと思う。何か当たり前のことをぼこっと知らなかったり忘れたり抜けていそうなところ、それによって取り返しがつかないことを起こしてしまいそうなところ、いちばん重要な他のものがそれを負うことになるのではというのが、いちばんいつも不安。