日記

日記/障害と鑑賞/デザイン

アーダ・ダダーモ 越前貴美子/訳『あなたは空気のように』

自分の肉体の痛みに寄り添うことができるなら、私はすべてを耐えられる。だから死も、一つの可能性のように思える。

 

「私は私がする治療そのものである」とセヴェリーノ・チェーザリは書いた。「とはいっても、治療をすることだけに私はあるのではない。(略)今は治療によってしか生きられない。治療を続けながら素晴らしく生きることが、また生きさせてくれるのだ」。確かにそのとおりで、治療は今のところ私にとって唯一可能な生である。

 

「だから」でそれ以前と以降がつながるのがよくわからなかった。読み進めて現れた「治療は今のところ私にとって唯一可能な生である。」と関係しているのかもしれない。読み終えてしばらく経ち、さらにあとになってページを開いたときに思った。

 

〈癌性〉という言葉について。

精神分析医ピエール・カゼナーヴがまとめた理論だった。いわく、「私は癌だと告げられたとき、自分に癌がずっとあったのだとわかった。癌が自分のアイデンティティだったのだと」。

 

ここも関係していると思う。

ここに今絶対にあると私だけは知っている痛み。この痛みと戦うしか方法はない、とされているし、それを受け入れてきた。痛みを生きさせること。この痛み、痛みの訴え自体が私だと降参し、認めて受け入れることは、私が生まれながらに奥のほうに抱いてきた死のほうを生かすことにつながっていくだろう。生きている私を殺すことに。

でも痛みはこんなに訴えてくる、こんなに生きて動く。戦うなど無茶なのでは。ここにあるのだから、なにか、もっと別の付き合い方があるのではないか。それをさぐっていくと「寄り添う」になるのだろうか。何かそうするほうが正しいように思えるし、そうできたら耐えられるのではないか。

こんなに苦しいのならどっちでもいい、と思っている〈だけ〉だろうか。それでもなお、人工的な、倫理の側にまだ生きるものとして、戦って生きるほうを選ばないといけないんだろうか。この、寄り添いたさの誘惑や説得力はなんだろうか。確かに残されたままになっているのは、宙吊りに生き延びているのは、このかたちある「弱さ」そのものであるまま、それでも、だからこそ、「治療そのもの」という存在である私。選ぶべきは、この私を最後まで見つめることだろうか。ここにもしかしたら、もうすこし自分の言葉になった「寄り添う」が現れてくるかもしれない。

 

「だから死も、一つの可能性のように思える。」とは、わたしがなんとなく想定していた、絶対に早晩に死ぬことは分かっているのに戦わないといけない、というニュアンスではないのだろうか。死という状態も、私が直面している行く手にあるひとつの可能性だという意味合いなのかな。「死んでしまいたい」「(あなたのために)生きなければいけない」「生きたい(と思っているかもしれない)」という、はっきりした願望から出てきたものではないことは、はじめから感じ取っていた。けれどもそれも、ぜんぜん違うかもしれない。

 

断片的に、端的に、ばらばらともいえる記憶の立ち上がるまま書きつけられていく私。「あなた」を生みここにいるものとして、「あなた」のそばを巡る重たさとしての私。「あなた」の顔かたち、雰囲気は、私の目を通してふわっと伝わってくる限り。力がなく、時間がない。その切迫が、息の浅さに、細切れでとぎれとぎれの断片になり、ひりひりする運びの文章になる。持ち歩いたり読まない日があったりお風呂に入りながら読んだりするわたしの身体に、それらの時間が貼り付く。

 

アーダ・ダダーモ 越前貴美子/訳『あなたは空気のように』(早川書房)

2026.8.1

こんな夜に走っている人がいる。こんな暑い夜も、日中でも、けっこういる。きのうはすごく意味のないことをがんばった。意味がないことをすることに意味があるという理解で、ぎりぎりで行ってみたらなんとかなるかもしれないというところまで。難しかったのがなんとか一段階進んだということもあわせ、いろいろ気が抜けてしまった。思っていたより何もできなかったとも思う、結局休憩の日になった。GUでスマートフォンを落としてしまい、店員の方が拾ってくれていて、受け取りに行った。音ありにして会員証確認してくれたのかなと思う気配があった。

『「闘争」としてのサービス』の山内裕さんのポッドキャストがあった。すごくすごくおもしろい。京都弁で、いじわるそうで。

 

 

悟性は先へと進んで、事物に名まえをつけることによる解釈を発達させますが、傷つき損なわれていない感覚的自己なしでは、悟性は名まえを越えた解釈の次元(レヴェル)、すなわち個々の重要性・意義づけというものを考慮に入れた、より複雑な解釈を思いつくことはできないでしょう。

 

 

つまるところ“I”「私」とは、悟性による概念であって、意志による概念ではないのです。意志とは、“I”「私」よりかなり以前に存在する“it”「それ」なのです。

 

ドナ・ウィリアムズ 川手鷹彦/訳『自閉症という体験 失われた感覚をもつ人びと』

 

どの場所でもいいのだけど、昔よく読んで、あとから読むとずっと同じ話をしているとわかる。悟性と感覚。悟性で仕立てる擬似的な感覚について。わたしがたとえば感じている怒りや恐怖や不安はほとんどこの、擬似的なほうだ。

2026.7.29

今日はすだれを買うことばかり考えていた。ついに買いに行けず。

 

この運命的な出会いに巻き込まれたすべての文化の内側では、文化的な衝突とその影響が、障害に関する新しい定義と経験を形成することになるのである。

 

一八三〇年の国税調査では初めて、ろう、盲目、そして「おし」の住民の数を記録した。一八四〇年の国税調査では「狂気(ルナティック)と白痴(イディオット)」(これはひとつのカテゴリーであった)の住民についての問いを追加した。

 

キム・E・ニールセン 後藤吉彦/監訳 兼子歩 坂下史子 土屋和代/訳『障害のアメリカ史 再解釈のアメリカ史・4』

 

何かと何かが出会う。どちらもわたしのまま生き延びようとする。わたしではないものに名前をつけてゆき、周囲に防壁を築き、名付けられないものだけは守ろうとする。名付けないでおく。後ろめたさや、不安や恐怖が内側から突き上げる。宙吊りではあっても、頭打ちの宙吊り。見立てた壁からわたしが出てゆかないように。これ以上出会わないように。そうして、突き上げられ頭打ちになり明らかになった、とうに知っているわたしにしか出会わない。しかし名付けてはいけない、気づいてはいけない、唯一出会っているものまでも締め出さなくてはならなくなるから。

2026.7.23

https://www.igaku-shoin.co.jp/paper/archive/y2026/3587_07

「脳性麻痺の改訂された『説明』と日本語訳の公開」(樋室伸顕/2026.07.14 医学界新聞:第3587号より)

注目すべきは「definition(定義)」ではなく「description(説明)」という表現です。定義は,他の疾患や状態と区別する基準として「何が脳性麻痺であるか」を示す一方,今回の「説明」は,脳性麻痺を多様で複雑な神経発達に関する状態(condition)として,その特徴や生活への影響を描いています。

 

今回は医療者向けの説明文だけでなく,当事者や家族,一般の人に向けてわかりやすさを重視した「平易な言葉での説明」が併記されています(https://www.mackeith.co.uk/journal/updated-description-of-cerebral-palsy/)。その中の“thrive”は訳が難しい言葉でした。今回採用した「自分らしく力を発揮して生きていくことができます」という表現は,当事者の意見を踏まえたものであり,脳性麻痺とともに生きる人々の経験や価値観を反映しています。

 

私が私のいる場所でどのようにこのことを受け取り、自分にあてはめたり違うところをみつけたりしながら、自分のことを考えることができるだろうか。人は、か分からないけれど、少ななくとも私は自分のことしか考えられない。

 

外から、外の論理で決めて、与える定義。ではなく、外にいる私、私たちとしてのあなたへのスタンスを示したもの。と受け取った。

私たちは私たちのことを知っている。私たちと比較するとあなたたちはこのようなところが違ったりこのようなことが内部で起こっているように見える。あなたはこのような困難をもっていると理解している、といった、私たちのための理解や見方のきっかけ。そういうスタンスを一段自覚的にとった説明をもつことが、あなたと向かい合うにおいてふさわしいのではないか、という、あなたへのスタンスのあらわれ。

 

「多様で複雑な神経発達に関する状態」とは、なるほどと思い、そうなのか、と思う。そして同時に、これ以上踏み込めない、かんたんには踏み込ませない、踏み込まれないように、という砦の言葉とも。砦は、本人がこれ以上踏み込ませないための砦にもなりうるし、私にはこれ以上はわかりませんと突き放すための道具にもなる。

 

「自分らしく力を発揮して生きていくことができます」も、その通りだとも思う。とてもいい言葉だとも。わたしだってずっとそう考えてきたともまた思う。

そうして、なぜ、こちら側でわたしがよく見てきたすでに「説明」のスタンスをとられている平易な文章たちはそれでも、本人の抱えるそれとは別のまったくとんちんかんな書き方が多いのだろう、ともまた思う。「自分らしく力を発揮して生きていくことができます」があくまで外側への適応を踏まえた上でしかできないようになっているしくみ、考えが土台になっているからだ、と思ってきた、とまた思う。透明で強固な土台。

 

「自分らしく力を発揮して生きていくことができます」というのはほんとうにそうなんだろうか。その通りに受け入れられそうに思えるのは、適応を目指させず自分を殺させないきれいな説明に感じるのは、もしかすると「脳性麻痺の人は私たちのいる側では適応を目指せるわけがない」という言葉にされない見えない「理解」が私の側に当たり前にあるからだろうか、ともふっと思う。

 

説明があって、説明をふまえた運用という行動がある。行動というか、一日一日を過ごす私の生活とか呼吸とか、何もできないという行動とか。この私の日々の運用の前に、私があなたへのスタンスを示すものとしての、自分のための説明がある。この説明は自覚できていない部分もとても多いはずだ。説明は言い訳になり目をふさぎ突き放すための道具になる。運用するなかで幾度も私は罠にかからないように気をつけないといけないと、こちら側で思う。

2026.7.16

やっとMacの環境を変えつつある。やっと、銀色の長い机と椅子。あとはおそらく、ハブが届いたら自動でいかなかったデータをちゃんと移行して、Luna Displayも使えたらいいと思う。意識して古典、古典なのだろうか、戸田ツトムさん、永原康史さん、久保田晃弘さん、鈴木一誌さん、などの思想をひらいている。claudeとずっと同じことばかり話している。恐ろしすぎて。座り方を変えたので腰のための道具も変えた。

暑くてぼろぼろでもある。

ヴァンパイアの皺

安っぽい風が吹く生き血を吸って生き延びる君を忘れぬように
片方の手で片方の腕を抱く お願いをする大人を見ている
離れ見るために小さな窓はあった 終わる頃みな眠ってしまった
頭から木が生えるみたい怒りながら伝えるのをひとに見せる夕べに
いなくなったけれど透明の魚を覗くだけの友だち
駄目になる時は誰でも分かるはず トランクを開けて風を逃して
しゃぼん玉もっと欲しいと泣く子ども見残して冷える通りを西へ
ヴァンパイア皺深くしてもの思う窓外の鳩の首細る頃

 

(「かばん」2026年6月号)

2026.7.13

やっと、机を部屋の入り口に運んだところまで。あとはほんとうに、現実に圧倒されている感じなのか、現実に意味をみつけたり失ったり。水道のレバーが壊れてしまった。どうなのだろう、今日は勇気を出してインプットの日だったのかもしれないし、それはそれでぜんぜん足りないじゃないかとも。