・何周目かのはじめにもどって。尽きた、終わった、というところにいて、最近思う適切な関わり方、見方のキモは、彼の「ゆっくりさ」をどのくらいの深さで、どのくらいのいろいろな目で、適切に理解して合わせられるかということ、そのための自分の時間をどう理解して何にどう充てられるかということ。
「マドンナ」シン・スウォン/脚本・監督
・香りがあって、画面のなかだけで、共犯者だけでそれは共有される。観る私には見えない、届かない、伝わらない。
・見る者は、共犯者であり証人でもある。別の共犯者でもあるし、別の者の証人でもある。
・見る者の見方によって何がどう生き残ることになるかが変わる。見る者が何を経験してきて、見てしまったものと何がどう響き合うか。どこを見て気づいてしまうか。
それは、見る者自身が何にどう見られているかによっても決まる。見ることは侵食すること。見られることによってどう踏み込まれているか、何を踏み込ませずまもっているか。
・名前がつけられていても、症状に名前がつけられていても、その実体は名付けられた者だけが決めていく、知っていく。それになっていく。もともと名前のない状態で抱えていたものと、侵食されてできるへこみや傷との複雑な組み合わせによって、独自のスタイルになっていく。
・韓国映画の独特だと思うところ、追い詰めていくところで嫌というほど寓話的に人工的に傷を開き、傷のなかに入り込むように見せていくところ。全部言葉にするところ。その時点で、見る者見られる者の役割がよりはっきりしてしまう。役割がはっきりするということは時間性や見る側の立っている舞台の現実感が意識されるということ。追い詰めていくカメラのこちら側の私、傷をひらき見る私を突きつけられるということ。を意識する私を突きつけられ、余裕がなくなるところ。ひとりで怖い思いをしなければならないところ。
ひらいて入り込んで言葉にしてなお、なおというかさらに、ひらかれ入り込まれ言葉にされた側のスペースが画面の向こうには残っているような気がする。向こうのことを、何も知らない私。観るこちら側は、突きつけられどんどん余裕がなくなる。自分のスペースが奪われ、自分ひとりになる。向こうにいる者とも、誰とも、一体感をもつことを許されない。許されないでなお残ってしまった自分ひとりの、相手がいないから響き合わない余韻を、味わわざるを得なくなるところへ連れていかれる。連れていかれる場所はいつも、もともと自分のいた場所と同じところ。