日記

日記/障害と鑑賞/デザイン

2026.9.6

約束が先送りされて、先送りした約束は流れてしまうかもしれない

と思いながら、連絡をし直したかったが、しない。ぽっかりあいた時間にやれることはいくらでもあったけれど、それらは今日はもうできないつもりで用意してきたつもりだったので、(用意は全然間に合っていないもののの)どうにも動けず眠いのに目は冴えて、外に出たり、うろうろしたり。一瞬あかむらさきのすごくきれいな夕焼けの気配があった。今日あるはずだった、かもしれなった時間を、代わりにわたしひとりで過ごした一日だったということ。

 

認知行動療法的ななにか目的をもつものとは何も関係なく、自分が見ているもの、目に入っているもの、すなわち自分がそこへ入り込んでいるもの、その周囲について、自分がどう感じているかどう思っているかを見ておくことこそが重要だと思い、なんだか納得がいった。

 

「児」が外れる。いる場所が移行していき、入ってくる情報や考えなくてはいけないこと、応じないといけないこと、またその時期にこそ考えられることできること見えることも移行する。見るべきもの考えるべきことを充分に見て考えられたとまったく思わない。いつも時間がなく、大事にしたいものほど後回しになり、ぜんぜんそこに時間をかけられない。もう時間がなく悔しい。というのをぜんぶの場面で繰り返している。

2026.8.31

部屋が気がくるったみたいになっている、さらに。

『自然のものはただ育つ』一冊を読んだ後に読むと、胸がつまってくる。ひとつひとつの言葉が、ここにしか生まれない意味、かたまり、ほかで考えられたことのないことがらであると存在を見せつけてくるように感じる。

 

彼が私たちに何を求めているか考えることなど、私たちは思いつきもしなかった。きっと彼は答えを出していただろう。私たちから得られるものがどれだけ少なかろうと、何もないよりはましだと判断したのだ。

 

私たちが——ムッシュ・ドゥヴォーと私が——書き直し終えると、物語はファビエンヌが語ったものとはちがう感じになった。何が起こったのかよくわからないけれど、新しい物語は彼女のものというより私のものみたいな感じだった。

イーユン・リー 篠森ゆりこ/訳『ガチョウの本』

 

 

一般的にアクセシビリティは、障害のある人がない人にできる限り近づくことを目指して考えられていることが多い。

田中みゆき『誰のためのアクセシビリティ? 障害のある人の経験と文化から考える』

 

今読んであらためていつも戻ってくるのはここだと思う。なんで否定するの、なんで踏み込んで外から雑に決めるのか。

一方で、表現に関するアクセシビリティは、障害のある人がない人と同じように体験するということを超えて、さまざまな違いを持った人が自分の身体で主体的に物事を体験するとは一体どのようなことなのかを考える面白さがある。

「表現に関する」は、かなり広く、自分の自分への表現という意味も含むと思う。

いっとき、相手のもつ表面的な条件を自分も課してみること、それで相手を理解しようとすることの危うさも書かれていた。

答えはシンプルで、たとえば人が「映画を観る」体験にはどういった行為が含まれているかを、マジョリティとは異なる身体を持つ人たちとともに考えることから始めればよいのだと思う。

これもたしかにそうだと思う。そうして、これが難しいのだと思う。できる気になるものなのだと思う。突き詰めればたぶん、書かれていることに関わらず、ともに考えることや、何かをどうにかしようということは、まず不可能なことだという前提があるはずだと思う。そうして、そのなかで欠けながら何か、適切なところへいくために工夫するのだと思う。そうして無理だと気づく。その繰り返し。無理だ、というところにいる自分とまた出会って、また別れる。

2026.8.24

六本木にロスコ・ルームができる。2030年。それまでは、とか、そのときには、ということばが思い浮かぶ。先だと思うけれど案外すぐ時間が経つのだろう。そのときまでは。

きのうの夜が気持ちよくて、案外長い散歩になった。はじめてついていく。川面に鈴の音みたいなのが鳴っていた。

かんたんなことで、その小さな小さな檻のなかに安全にいた頃は、私は今から思えばあれでもぜんぜん明確に恨みつらみをつのらせ考える対象があって、たのしかっただろう。今はそんな単純さはない。でもそのときはすごく複雑だと思っていたと思う、取り囲むもののことを。また、今のほうがやっぱりより単純すぎる法則のなかにいるのではとも思うし、どうなのだろう。今も非常に、ものすごく狭いんだということはわかっていると思う。

イーユン・リー 篠森ゆりこ/訳『自然のものはただ育つ』。「徹底的な受容(ラディカル・アクセプタンス)」、このひとつの場合においての。もしかしたらはじめてぜんぶを抱き込んだ「私」のために書かれた本なのかもしれないと思う、その必要があって。

toggle trackを入れたのと、ヨガ&ヨガニドラ数日で、よい感じになってきた。数年ぶりにすっとした感じがすこしあって驚いた。

2026.8.12

頭では理解していたけれど、やっと、実際に、これをこちらのことに使うことができた。遅い、遅い、遅い、遅い。ほんとうによかった。苦しいが期限があり、なんとか決めたことをまもり、道をすこしでも整えておきたい。

 

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自分が疲れ果て時間切れぎりぎりになるまで待つ、というやりかたにしばしばなってしまい、苦しい。前はもっと細かくうちがわの自動的な動きとのバランスを、とれるような気でいたけれど、それはやはり絶対に無理で、ばかみたいだと思いながら思いつくかぎりのことは工夫しているつもり、だけど、いろんなタイミングが重なるとどうしても難しい。

 

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ときどき、自分以外の人物がすでに一度経験した人生を、その人がうんざりして投げ出した人生を代わりに生きているのではないか、そう思うこともある。

 


チョ・ヘジン 呉華順/訳『天使たちの都市』

2026.8.11/『こちらあみ子』『プライベート・ケース』

いちから教えてほしい

 

森井勇佑/監督・脚本『こちらあみ子』

夜中だらだら観てしまった。

唯一、シンプルに、同等の人間として相手を扱うことが身についているらしい子、それともなにか相性がよくてあみ子のことがどこかでわかっている子へ、あみ子が言った言葉。あみ子が言葉にすることはぜんぶほんとうのことで、ぜんぶ意味のあることだ。

よいひとのように描かれているけれどあとからあとから父親にむかむかしてくる。なぜ、あみ子にはわからないといえるのか。なぜ、あみ子にだけ教えるべきことを教えないのか。相手をばかにしてはいけない、相手のなかにある知性を見るべきだと思う。けれどこういうこと、教えないこと、知らせないこと、相手はわからないと決めつけること、自分の身についてしまっていることだろうと思う。お兄ちゃんも出ていってしまった。けれど家族だからとうまくやらなければいけないということはなく、どこか合うところがそれぞれみつかればほんとはいい。

 

レベッカ・ズロトヴスキ/監督・脚本『プライベート・ケース』

大きなことがひとつ終わり、力が入らない数日の間に観に行ったもの。ジョディ・フォスターかっこよかった。最後に考えて自分のやりかたを変えたところや、友人という関係のもちかたをつくろうとしていくところや。黒字に赤のアメリカっぽいフォント、騒音、雑音、それら入り混じっているところ、中心がないところがよかった。

 

きのうは涼しい時間があって気持ちよかった。

アーダ・ダダーモ 越前貴美子/訳『あなたは空気のように』

自分の肉体の痛みに寄り添うことができるなら、私はすべてを耐えられる。だから死も、一つの可能性のように思える。

 

「私は私がする治療そのものである」とセヴェリーノ・チェーザリは書いた。「とはいっても、治療をすることだけに私はあるのではない。(略)今は治療によってしか生きられない。治療を続けながら素晴らしく生きることが、また生きさせてくれるのだ」。確かにそのとおりで、治療は今のところ私にとって唯一可能な生である。

 

「だから」でそれ以前と以降がつながるのがよくわからなかった。読み進めて現れた「治療は今のところ私にとって唯一可能な生である。」と関係しているのかもしれない。読み終えてしばらく経ち、さらにあとになってページを開いたときに思った。

 

〈癌性〉という言葉について。

精神分析医ピエール・カゼナーヴがまとめた理論だった。いわく、「私は癌だと告げられたとき、自分に癌がずっとあったのだとわかった。癌が自分のアイデンティティだったのだと」。

 

ここも関係していると思う。

ここに今絶対にあると私だけは知っている痛み。この痛みと戦うしか方法はない、とされているし、それを受け入れてきた。痛みを生きさせること。この痛み、痛みの訴え自体が私だと降参し、認めて受け入れることは、私が生まれながらに奥のほうに抱いてきた死のほうを生かすことにつながっていくだろう。生きている私を殺すことに。

でも痛みはこんなに訴えてくる、こんなに生きて動く。戦うなど無茶なのでは。ここにあるのだから、なにか、もっと別の付き合い方があるのではないか。それをさぐっていくと「寄り添う」になるのだろうか。何かそうするほうが正しいように思えるし、そうできたら耐えられるのではないか。

こんなに苦しいのならどっちでもいい、と思っている〈だけ〉だろうか。それでもなお、人工的な、倫理の側にまだ生きるものとして、戦って生きるほうを選ばないといけないんだろうか。この、寄り添いたさの誘惑や説得力はなんだろうか。確かに残されたままになっているのは、宙吊りに生き延びているのは、このかたちある「弱さ」そのものであるまま、それでも、だからこそ、「治療そのもの」という存在である私。選ぶべきは、この私を最後まで見つめることだろうか。ここにもしかしたら、もうすこし自分の言葉になった「寄り添う」が現れてくるかもしれない。

 

「だから死も、一つの可能性のように思える。」とは、わたしがなんとなく想定していた、絶対に早晩に死ぬことは分かっているのに戦わないといけない、というニュアンスではないのだろうか。死という状態も、私が直面している行く手にあるひとつの可能性だという意味合いなのかな。「死んでしまいたい」「(あなたのために)生きなければいけない」「生きたい(と思っているかもしれない)」という、はっきりした願望から出てきたものではないことは、はじめから感じ取っていた。けれどもそれも、ぜんぜん違うかもしれない。

 

断片的に、端的に、ばらばらともいえる記憶の立ち上がるまま書きつけられていく私。「あなた」を生みここにいるものとして、「あなた」のそばを巡る重たさとしての私。「あなた」の顔かたち、雰囲気は、私の目を通してふわっと伝わってくる限り。力がなく、時間がない。その切迫が、息の浅さに、細切れでとぎれとぎれの断片になり、ひりひりする運びの文章になる。持ち歩いたり読まない日があったりお風呂に入りながら読んだりするわたしの身体に、それらの時間が貼り付く。

 

アーダ・ダダーモ 越前貴美子/訳『あなたは空気のように』(早川書房)

 

(追記)

痛みというものに寄り添いたい、理解できるならしたい、そのためなら死も一つの可能性としてありえる、という意味にやっぱり思えてきた。でもそういう文脈だったかどうか。

2026.8.1

こんな夜に走っている人がいる。こんな暑い夜も、日中でも、けっこういる。きのうはすごく意味のないことをがんばった。意味がないことをすることに意味があるという理解で、ぎりぎりで行ってみたらなんとかなるかもしれないというところまで。難しかったのがなんとか一段階進んだということもあわせ、いろいろ気が抜けてしまった。思っていたより何もできなかったとも思う、結局休憩の日になった。GUでスマートフォンを落としてしまい、店員の方が拾ってくれていて、受け取りに行った。音ありにして会員証確認してくれたのかなと思う気配があった。

『「闘争」としてのサービス』の山内裕さんのポッドキャストがあった。すごくすごくおもしろい。京都弁で、いじわるそうで。

 

 

悟性は先へと進んで、事物に名まえをつけることによる解釈を発達させますが、傷つき損なわれていない感覚的自己なしでは、悟性は名まえを越えた解釈の次元(レヴェル)、すなわち個々の重要性・意義づけというものを考慮に入れた、より複雑な解釈を思いつくことはできないでしょう。

 

 

つまるところ“I”「私」とは、悟性による概念であって、意志による概念ではないのです。意志とは、“I”「私」よりかなり以前に存在する“it”「それ」なのです。

 

ドナ・ウィリアムズ 川手鷹彦/訳『自閉症という体験 失われた感覚をもつ人びと』

 

どの場所でもいいのだけど、昔よく読んで、あとから読むとずっと同じ話をしているとわかる。悟性と感覚。悟性で仕立てる擬似的な感覚について。わたしがたとえば感じている怒りや恐怖や不安はほとんどこの、擬似的なほうだ。