日記

とみいえひろこ/日記

2026.7.8

もっと暑くなると思っていたので、涼しい日々は夢のようだった。夕方から夜にかけて、驚くほど空がきれいな時間に外に出ることもあって、そのときは数秒立ち止まったり立ち止まらずとも眺めた。明日から暑いというので、これが最後なのかと思って、久しぶりに夜コーヒーを飲みに行った。七夕のイベントか何かで人が多い。はじめてテラス席にすわった。

やっぱりふらふらするしいろいろ気になるので、10月の検診まで待たず近所の婦人科の予約をした。ここは、今検診で通っている病院を紹介してくれたところで、一度診てもらったときに話したことも覚えている。人心掌握という感じの接し方も。数年経ってこういうふうに選ぶものなんだなと思う。しばらく前から明らかに1日のなかで細かく何度も、軽めの波が来るようになった。自分で思っているより集中できている時間や仕事になっている時間はかなり、かなり少ないと思う。これはきっと前からで、それがもっときつくなったかもしれないし、工夫してよくしていけるかもしれない。

犬がにおいを嗅ぐ。犬はにおいで全部を知るという、いつ誰がどういう道を通ってここに立ち寄ったか。その層を知り、言葉でないしかたで理解し、今ではないけれど出会ってあいさつをする。そのことと、寝る前に読んだような、死を生きるという生のありようのことや、ほか雑多なことを思う、思うというより囚われる。囚われながら散歩。1日経ってそこにブリューゲルのうしろ姿のことが重なる。ほかの多くのことが重なる。

大きな仕組みが変わっていくとき、残ったひとはどんなふうに考え向き合おうとしたり創意工夫したのか、ということを知りたく、おのずと探している。

息を吸いすぎている感じもあるけれど、これは(これも)思い込みなのかもしれない、という微妙なことが多い。

 

 

愛されぬものを愛すこと。世界で迷子になること。もうひとつの社会のありかた、新たな可能性、新たな語彙を可能にする錯乱の地盤を実践すること。

 

「奔放——可能性についての短い記述」(サイディヤ・ハートマン 榎本空 『奔放な生、うつくしい実験』)

2026.6.27

犬って犬種ごとにほんとに似ているんだな、と犬を飼うようになって知った。あくまで同じ種、同じ系の範囲内で、すこしの違いをさまざま備えてそれぞれ育つ。種が同じだと、ほんとに似ているなあと思ってすこし長く見てしまう。散歩中、種が同じで、名前が似ている子とときどき会うようになった。母音が同じで子音が違う。音引きがあるのも同じ。

生まれつきだったり、わたしが出会う前のもっと幼い頃その子が置かれていた環境下で備えた癖や性格がある。それぞれに違う。そうして、成長するなかでそのものの本来のなにかが表れてきたり、影響し合って変わっていったりする。そのなにかや表れ方は想像もつかない。

ある年齢を境に、その子は犬に対してつよく吠えるようになった。人にはなつく。吠えはじめた最初のほうは、前に会ったときはあいさつしていたし、大丈夫なんじゃないかと(お互いを連れている人の側が)思って互いに近づいてみたりする。でもどうしても駄目みたいで、かなりつよく吠える。吠える背景に、その子にとっての多くのなにかがある。

ばったり会うことはそう多くないけれど、会うたび互いに距離をはかり合う。だんだん距離感がつかめるようになる。その子がいることに気づいたら、違いに適切な距離と思う位置に離れ、あいさつをするようになった。犬同士目は合っていて、互いにどこか、もっと近づきたいようにも見える。切ないと思う。でもこの距離がたぶんいいのだろうな、これ以上止まっていたらよくないんだろうなと思って離れる。それぞれが互いに成長して、この関係性においてこの距離、この時間をつくった。

2026.6.26 『きみは知らない』チョン・イヒョン 橋本智保/訳

私は、ミンこそこの物語の主人公なのではないかと思う。この物語の中ですら隅に追いやられた(ように思える)ミンの生を思うと、体が引き裂かれそうな苦痛をおぼえる。

ミンは韓国生まれの台湾国籍者だ。生まれ育った韓国ではビザを更新しながら暮らし、台湾では正社員になって生活をすると兵役が課されるためどこにも属さない暮らしを選ぶ。孤独な生に身をまかせ、寂しいのが当たり前だというかのように、台湾のある街でひとりひっそりと暮らしている。ところが自分にも大切なものがあることを知った。作中では、それを守るためにミンのとった選択についても、冒頭の遺体が誰なのか、なぜ死んだかも明かされていない。

 

(訳者あとがきから)

 

その少年は口が半開きだった。開いた唇の隙間から、曖昧な発音の笑い声が果てしなくこぼれてきそうだった。

名前:パク・ジホン
失踪場所:全羅北道南原市鷺岩洞
失踪日時:一九九一年五月一日
特徴:二級知的障害と言語障害がある

 

 

書かれたものを読むことで、書かれていないことが明らかになる。読むことは誰かの書き残したつづきを書くことと同義なのだろう。


ミンの生き方について。オギョンのずるさについて。ユジの信じやすさ、純粋さ、あこがれをふくらませて会いにいった時間に現れた互いのどうしようもなく子どもの感じ、失敗や恥ずかしさや中途半端さや、ぜんぶがつまったあの感じについて。〈子ども〉時代をぜんぶひとりで背負わなければならない、背負う力があったことについて。ヘソンはもしかしたらほかのことを背負いすぎて〈子ども〉性を背負う力は出せなかったのかもしれない。
ひとりひとりが抱え持つ複雑さがぽろぽろと書き込まれていて(本音にすこし触れているかもしれないところ、弱いところが危うくもすこしずつそのまま書き込まれていて)、ひとりひとり思い入れしてしまう。魅力的だった。

2026.6.23

終結セッションはたいてい、近い将来に生じると思われる問題を特定し、実行可能な解決を模索し、問題解決を促進するセッションを意味する。

 

 

治療で得たものを定着させるひとつの方法は、家族に彼らがどのようにこの先の問題に取り組もうと考えているか尋ねることである。彼らの努力を集中させるFFTセッションがなくなったとき、新しいストレス因子にどのように取り組むのか?

 

デイヴィッド J. ミクロウィッツ 小野裕 三村將/監訳 中川敦夫/訳『双極性障害の家族焦点化療法』

 

ひとつ、だめだったかも、もう終わっているかもしれない、と思う。ただ、時間ができて、私の体のほうにぼろぼろ出てきてしまった。こっちに出てくると考えていなかった。でも、この時期に何かは来ると分かっていたし、もっときついものと思っていた。まだ思っていないといけないものの、気が抜けてしまっている。このあとどうなるかもぜんぶ分かっている、何が実際に起きるかは分からないけれど。どう終わるかもぜんぶ、分かっている。想定よりやや早くにいろいろなことが見えてきているはずだと思う、というより、体感する時間がどんどん早くなる、こんなに、ということを知らなかった。ぜんぜん見えていない、ぜんぜん分からない、ともいっぽうで思う。目のなか、体のうちからぜんぶかわきすぎていて、みじめで情けないと、いっぽうで思う。時間が短いのに長く、通り過ぎて多くのこと多くの感覚を忘れてしまったとは思う。

時間ができて、疲れ果てて動けないのでなく、やっと、整理しようと思っていたもののいくつかを整理できた。袋や箱に入れて分けたのだけど、もの自体が減っていないため、わたししか整理できたと知らない。でもこれだけで、自分のなかではかなり進んだ感じがあってよかった。

2026.6.18 『アダムの原罪』ローラ・ワンデル/監督

『アダムの原罪』ローラ・ワンデル/監督

 

映画はいきなり終わる。まるで始まりのように。

 

観客である私にはずっと、看護師であるルシーの背中が見えていた。院内を歩き回り目に入ってくるものを見つづけ、自分の仕事をし続けるルシー。自分の仕事をしている途中で電話が鳴ったら、ルシーはそこにいる人にあとを任せて別の場所へ行く。任せるときに数秒長く相手を見る。この重要な電話を、初めて会うアダムの父親へ貸したときがあった。そのときにも同じ長さで相手を見、あなたを信用するという約束をし、電話を渡した。

 

院内を歩き回り、対処、善処し続けるルシーの目の先は、常に私にはぼやけていた。ルシーはルシーの目でレベッカを見、レベッカに似ながらぜんぜん違う人たちの抱える問題を見続ける。レベッカに「孤立している」という問題を見、「助けが必要だ」と考え、手を尽くそうとする。

 

レベッカが見ていたものは何だろう。いずれにせよ、何かを見続けて、裏切られ失望するばかりでもう何も誰も信用しないと決めた人だと分かる。「孤立」のほうがまし。でももう、手がなくて、あなたがたのいうようにではなく、子どもを生かすために、自分が母親として「孤立しない」ことを選び「助けてもらう」ことを選んだ。映画はそこで終わり。

 

映画の終わり、「孤立しない」「助けてもらう」ことを選び先に歩くレベッカを見るルシーの顔を、私は見ることになる。このような顔でいつもルシーは対象を見ていたのだ、と知る。同時に、私のほうがルシーに見られる位置にくる。今まではルシーを盾にして対象を見ていたということも知る。

ただし、自分が見られる位置にきても、私はルシーと目は合わない。

先を歩くレベッカの背中をルシーは見ている。この瞬間、ルシーの目線は私が見てきた目線、構図と同じになる。何かを見続け歩く人の背中。歩くその人の背中がどのような問題をどのように見続けどのような文脈で「孤立しないこと」「『助け』を受け入れること」を選んだか、誰にも見透かされることはない。ルシーがたびたび組織の上の人間に言っていた「アダムのためを思うなら私たちが母親に信頼してもらうことが重要だ」とか「母親が孤立している」とかいった言葉は、情感とかそういうものからくるのではなく、もっと、契約とか、社会的なルールとか、倫理とか、そういう意味あいからきている言葉だと思う。

 


レベッカが選んだ行為についても同じ。選ぶという言葉、選ぶという意思表示。レベッカには言葉も与えられない(と感じる)けれど、言葉はいろいろな方法で表される。態度、選択、目つき、立てこもり。どのような文脈で彼女がその選択をしたのか、見る側には見透かせないけれど、私には、レベッカがそちら側のルールを受け入れるという諦めとともに選んだのだと思えた。受け入れることで余計にほんとうの孤独のなかで生きることになる。それを知りながら、アダムの母親であるという役割を生かそうとしたのだと思う。自分の見ている現実に照らし合わせ考え、これが適切だと導き出したやり方とはぜんぜん違う。同じ言葉を使いその言葉を受け入れる。けれどもそこにレベッカが込める意味あいはおそらく誰にも理解をゆるさない、少なくとも当面は。

 

 

この映画で描かれていたものはつまり、見えないもの、分かりようがないものそのものなのかと思う。なぜアダムがこうなったかこの先もおそらくほんとうのところはずっと分からないだろうということ。ルシーがしたことがこれでよかったのか誰にも分からないということ、この先もルシーはそれを抱え続けるだろうということ。横に並ぶことはできない、ということ。

 

 

(なぜ原題はこのように訳されたんだろう。アダムといったらイヴで、アダムという存在、アダムというありかたを創ってしまったもの、手を引いてそのように導いてしまったものを指し示すタイトルのようにも思える。そのものに対する責め、責め以前のもの、言葉を詰まらすもの。生まれてしまったアダムについて誰も責任をとらない、とれない。その原罪であることをとりあえず引き取り受け入れたものでもある。)

2026.6.16

期待しないようにしていた申請が通ったという連絡がきた。かなり助かる、嬉しい、よかった。あと半年で大きなのも終わる、それ以降やその前後にきっと何かあるとは思っている、思っておく。でもほんとに、あと半年、あと数年で、また大きく変わるのだと思う、どんなふうになるのか見当がつかない。

 

「異化」はその生物に訪れた異変ではなく、むしろその存在に必要な一形式なのである。

 

 

ヒトは自然を異化・異物・変貌などの運動が乱流する時空まるごとに命名を施し、個体と特定していると思っている。我々が生身であることを諦め「方法」という異物を駆使し、やや強引に運動や状態の移動を強制せざるを得ないのもこういった事情に近いのではないだろうか、ふと思う。

 

戸田ツトム『デジタルデザイン、迷想の机上 電子思考へ…』