日記

とみいえひろこ/日記

小黒世茂『九夏』

なにかが来る前のやうにも遠のいた後のやうにも目をつむる馬

 

やさしいふりあかるいふりして沖は凪ぎ在所の岬はわたしを忘れた

 

カーテンは水藻のゆらぎ まつくらな自室に鮫が泳いでゐたり

 

風みたいに何度も生まれるのはよさうけふは銀杏のみだれゐる街

 

さほど好きでなかつた柿いろセーターを着てゐることがいまの気がかり

 

これの世は菌糸のつながり明けがたの森の出口に傘ひらく姉

 

 

馬に会いに、茸に照らされに。それは、見るということをしてきたものに見られに行くこと、つながりの糸にまつわりに、ほどかれに行くこと。時や状況に身体を預け、託し、自分をやわらかく世界に向けてひらく。ひらこう、まかせよう、と思ってひらく。

そのとき、自分の輪郭はここまで、という境界を示し守ってきた杭がただの棒になり、時間、体温、話さず離さなかった思いのようなものが杭を越えて溢れ流れ出る。

 

 

ためらひは長くつづきぬ白藤の肩から落ちたるいちまいの夜

 

苔の吐く息はうつすら霧となり樹下のをんなの声をくもらす

 

さきほどまでゐたる蕎麦屋の灯も消えて堀の底から真夜中はくる

 

 

杭を杖にして歩き、我が身から流れ出る、もはや自分の所有物となっていた無言の時間や体温、記憶をもとの場所へ返してゆくとき。

 

 

水ぞこから淵にあがつたここちするターナー画集を閉ざしたあとは

 

返してゆく、と言葉にするときも、言葉が生まれたところは水ぞこ。聞いたのに、知っているのに、聞き取れなかったこと、知れなかったことが沈殿して言葉になっていた。必要で、言葉を汲み上げるとき、言葉になるのを待つという静的で激しいプロセスごと汲み上げる。汲み上げられた言葉はこぼれて霧をつくる。

 

 

小黒世茂『九夏』(短歌研究社