心とうはすべての窓に顔を出すことあらぬ思い壕べ行きつつ
『捲毛の雲』
さらっと読んだものの、何年も放ったらかしだった歌集。一昨日くらい、わたしが読むべきタイミングがよかったのか、背景を知らずに読んだのもよかったのか、小田切ヒロが梅田に来ているインスタライブを見たあとに読んだからなのか、一首一首、なんなんだと思ってドキドキしながら読みすすんだ。読む、というよりリズムを喪い、胸のなか、内側からつかまれてダイレクトに揺さぶられ、揺さぶられ、どういう感情ともいえない。直接、何か感情や感覚に似たものに出会う。
渡辺良という人の歌集を古本屋で手に入れ、とても惹かれて集めていって、この人の歌集にたどりついたのだった。
ゆする、うしなう、帰る、という行為とみずからの心の関係、行為に見出す意味、依って存するという関係によってつながりまた切れている内面と風景。
軛ということ、背負うということ、いろいろな窓がありいろいろな座り方があるということ。
そういうことが、そういうことによって、確かめられながら歌にされる、その手や時間や、それらを超えたものを読んで何か激しく感じているのだと思う。
同感だな、と感じるわけでもないし、言葉がすごくしつこいなと思うこともあるし、ただ、酔っているふうにも感じない。価値観や考え方や見方や歌の感じがすごく好きというわけでもないと思う。けれども、そういう小さなことはおいておいて、とにかくダイレクトに向かってきて胸のなかでかたちをすごくさまざま変えてくる。自分ではない、こういう歌に出会って読めてほんとうによかったと思う。
飴色の樹脂ひかりつつわがうちに苦しみに似て喪いしもの
(『禾本草原』)
丘の家に到り得ぬ距離に手を伸べて倒れいる女 わが好む画に
(『掌のごとき雲』)
左の眼の創は若き日の過ちにして痛みはわがひとりのもの
夕ぐれの露地に蕺草の花においかえる優しさは死に逢うに似つ
(『水の上』)
羽状の穂ゆるるを見つむわが身よりこの世の時間が抜けてゆくごと
(『金井秋彦遺歌集』)
『金井秋彦歌集』(砂子屋書房)