日記

とみいえひろこ/日記

雨宮雅子『雲の午後』

ここにあるものだけ、ここに確かにあるものだけ、よく見て釘を打つようにして。見えるもの、在るものだけを書くことで、書かないことをする。黙ることをする。歌のなかで、歌の時間を過ごすなかで、自分を歌の時間に放り込もうとし費やすなかで、そう決めている感じがする。

はみ出すもの、とりかえしのつかないものが生なら、それをよく見るために、自分の目で、手で、扱いきれるものの量や重さを確かめようとしている感じ。書かないこと、未定のこと、わからないことを、それらに応じた独特の方法で記すための歌の姿、歌の影、かたち。

事実、存在、実存…そういった何かの確認が何度もなされているようで、しかも私的な(私的だから、私的のその底のほうで遠くと、誰かと、つながってしまう)罪を手がかりにそれがなされているような、そういうことに歌のなかで気づいていくような。そんなところが気になるし、歌が自分の今に食い込んできて、落ち着く。もしかしたら10月からか、11月頃はこの作者の歌集を傍に置いていた。

 

 

陽炎のかなたに揺れて磔刑のイエスの顔を拭ふヴェロニカ

 

朝ひかり差す食卓にパンと水ありて聖なる時間とどまる

 

茨の実かたみに置きて冬日なた人と人との愛は過ぎつる

 

「黄金のくさりかかれる樫の木」を見ることなくてわが生過ぎなん

 

おのづからなる隠れ沼 ハイランドホテルの窓を霧はとざせり

 

この朝の雪消水のひかり思ふべくセロリを噛めばセロリ香りつ  雪消水・ゆきげ

 

 

 

雨宮雅子歌集『雲の午後』(砂子屋書房