日記

とみいえひろこ/日記

2022.03.15

なぜこういうことになりがちなんだろう、戻そう、調整しようというつもりでやることも労力をつかうだけでほとんど何にもならない。はじめから関わらないほうがよかったのかな、と思いながら、それでも、少しずつ、良いやり方への近づき方を学んでいるような気がしないこともない。ただ、こういうことを経て辿り着いた場所はやっぱり良い場所とほど遠いと思う。わたしはこれでいいとぜんぜん思わない。むしろ悪くなったと思う。わたしには見えないところで良くなったことがあるんだろうか、それがいいならいい。すごく表面的なことのために、大事なことをことわりもリスペクトもなく引き摺り出し、かんたんに与えて利用させた、利用した、という感じ。

なぜこういうことになりがちなんだろう。はじまりも良くなかっただろうし、やることがぜんぶ都合の良いものになっていく分岐点がいろいろなところであった。

2022.03.12

阪神百貨店の前の歩道橋のところ、いつも工事中のような感じで広々としていて自分が小さく感じる場所で、考えにたどり着く。いつも自分はものごとを螺旋状に考えたいんだな、取り組みたいんだな。方向性も決まっていて、求められているものはとてもシンプルなもの、ことで、答えがほぼ決まっているところ、そこへ向くまでもなんか時間をとりたがるし、かかってしまう。迷いに迷って出してみたらそれが答えで、自分の今の場所もわかってよかった。ということが、すごく多い。とくに今そういうことが重なっていると思う。期間をすこし延ばしてもらって、ふだん見ないものを見に行った時間があった。螺旋が狭く浅い状況は居心地が悪く、避けたい、息苦しいと感じる。

優先順位のいちばんのはずの、ことが、だんだんあるべき位置に来ようとしている、とても時間をかけて。

2022.03.08

わたしは今、ようやくそれを認めることができる。本当の理由をしゃべってよい、と自分に許可を下す。長年にわたってわたしは、あの日、あの丘の上で長い時間を過ごし、自分自身を苦しめた経験を繰り返し思い起こして、自分を慰めてきた。だが一度は真実を言わなくてはならない。ことばを口に出さずにはすまされない。極度におびえ、死にものぐるいになっていたせいで叫び声を上げたし、わたしの心臓と肉を分けて息子の心臓と肉ができたことは重々承知していたから痛みだって感じた。その痛みは今日まで片時も消えたことはなく、墓の中までついてくるに違いないと思っている。それらすべてがあってなお、痛みはあくまで息子のもので、わたしのものではなかった。

 

コルム・トビーン 栩木伸明/訳『マリアが語り遺したこと』(新潮クレスト・ブックス)

 

キリストを失った母親が、あとになってすごいぶつぶつ言っている本。たまに悪態もつく。ぶつぶつ言っているのはそのときにいちばん真実にひりひりするくらい近いところに迫っていたかもしれない者の口。最後だから、自分のために、もうそうせざるを得ないから語っている。ほんとうにわたしが見たものを、ほんとうにわたしが迷ったことを、ほんとうにわたしが選んだことを。わたしがほんとうに捨てた可能性を。もう今しかないだろうから、もう疲れてしまったから。もういいだろう、自分のために、ほんとうに自分が受け取ったことを確かめようとしても。わたしの真実でなく、あなたがたの求める〈真実〉に、これだけ合わせてきたのだから。

ぶつぶつ言っている言葉は書記のようなふたりに聞き取られてはいるけれど、それは今なお誰かのための、何かのための聞き取りであって、女もそれをよく知っている。女の語る言葉はどうせ聞かれない。都合のいいものにねじまげられ、〈真実〉が記録される。

 

誰もが知っている神の物語は、どうして、誰のために、残され語り継がれている物語だったろう。残されるもの、語り継がれるものにはニーズがある。

このひとりの女の語りや行動や思惑は、ニーズがなかったから残されなかった。今見ていることもそういうこと。

それはすでに、とっくに起こっていたことなのに。

 

そして、捕われて絞め殺される危険が持ち上がったとき、わたしはとっさに逃げようと思い、その気持ちは最後まで揺るがなかった。

 

生き残る者は、みんなこのようにして生き残る。生き残り、生き延びたら、このようにして生き残っていることを、それぞれが自分のために自分で語り遺さなければならないことになる、どうせ。外の誰かのニーズによらず、外の誰にも聞き取られずに。理解もされずに。

2022.03.02

透明の仕切りがカメラに対して垂直に立てられているため、視聴しているこちらからは積極的にそれに気づいていかないと仕切りがある感じがしない。

また、他の場面でも。並んだ数人の距離は適切で、不自然ではない。話す場面ではなく、動線が決められているからどの人もマスクをしていない。これはだってファッションのイベントだから、この見せ方をまもりたかっただろう。事前に動線も見せ方も、マスク着用かどうかについても、よく考えられたんだろうなと思う。こだわればここまでいける。とてもスマートで、場に適っていて、内容よりあの仕切りのような、気づかないと見えない〈動き〉の印象が心に残った。舞台上で、舞台の下で、さまざまな層のルールをそれぞれがまもり、それぞれの動きや考えが常に動き、複雑に組み合わさっているんだと気づく。人は〈動き〉なんだな、人の表情や目に見える印象だと思っていたものはほんとに頼りにならないというか、自分の内面の投影でしかないんだなと思った。見えるものにほんとうに囚われているし、信用してしまっている…信用しているのかな、信用しているというのでなく、目に見えて分かる気がするものに縋ろうとしている後ろめたさや疑いがあるような気がする。空襲に焼かれたあとにいつもの場所へ行ったら、いつも見ていた建物がぺらぺらに見えたという話を思い出した。

 

 

Huluの無料視聴期間でBBCニュースを流している。同時通訳で入ってくる声は、情報とはべつのところに集中がいっていて、取捨選択されながら淡々と裸になってその情報が伝わってくるように思う。切り口や粘り方や、ひとりひとり率直に自分が感じたこと、視聴者にとって(自分の信じるところによって)必要だと判断したことを言えるところが、なんだかぜんぜん普段自分が接しているものと違うなあと思った。

 

2022.02.26

確定申告をやり始めてしまって、今朝提出できた。数字からいろいろ見える。このやり方でこれをこれ以上高めるのはもう限界だなと実感するところもある。でも大きくやり方を変える状態とは思えないし、そういうタイプではないんだなとわかる。状況に動かされるほうが納得がいくし、自分には合っている。だから状況をよく見る勇気や賢さがやっぱり必要と思う。だんだん使いたいことにお金を注げるようになってきて嬉しい。継続的に役に立てているのなら嬉しい、よかった。

 

 

目に見えるようになる前から、それは始まっていたのに。ここにいても仕方ないだろう、また同じことに、もっとひどいことになるだろう。仕方ないあたたかいところにぬくもりにいくことにも意味はあるともわかる。でもやっぱりここにいたくない、がんばったらいることはできるけれどすごく無駄にしんどいと感じるところを見て、違う場所から、どこから見たらいいかをさがす。

 

ただ視線を低く設定しているように見えた。彼女の解釈は気難しい気ではあるが、それは扱えないものは何もないと胸に刻むための抜け目ない手法が、彼女にはあったのだ。

 

何度も書き直されたもの、一度は口にされたが今は消されたり陰の部分に移されたものの痕跡

 

エリザベス・ビショップ 悲しみと理性』コルム・トビーン 伊藤範子/訳(港の人)

 

エリザベス・ビショップの詩を読んだことがなく、装丁に惹かれてこの本を手に入れた。

何かを説明する文章が好きだと思う。昔から、キャプションを読むのが好きだった。箱組の佇まい含め。〈それ〉に近づけないもどかしそうな感じ、さまざまな手段をつかって現そうとする感じ、その動きの奇妙さ複雑さ、読んでいてときにぐっと透明に感じるところが好きだと思う。

 

2022.02.25

『私のように黒い夜』ジョン・ハワード グリフィン 平井イサク/訳(ブルース・インター・アクションズ)

相手の立場になってみる、というたったひとつの方法をシンプルに実行することで見えてくる風景について書かれている。「相手の立場になってみる」ためにした工夫は、自分の顔を黒く塗る。これだけのこと。

相手の立場になってみる、というのはどういうことか。それが、なぜできないと感じるのか。何を自分に対してごまかしているのか、なぜ見えない状態になっていることを自分が受け入れているのか、ということが見えてくる。かんたんに思いつくシンプルなことに思いを馳せ、考えるだけ。自分が思いを馳せて考えることができるための工夫をすることだけ。

表紙の写真はとても印象的だった。鏡をのぞき合うふたりの男。ふたりの男は〈実際は〉ひとり。顔を黒く塗った男が鏡をのぞくとき、顔に光が当たって白く見えている。真白で、〈実際〉の顔よりも白く見えているだろう。どちらが〈黒く塗った〉顔だろう。どちらが〈実際〉の顔だろう。写真だから、どちらが〈実際〉の男でどちらが鏡の中の男なのかわたしにはわからない。写真を撮った目があり、手があり、目と手の存在を感じながら写真を見ているこちらにわたしがいる。写真全体は空のような、または海のような、世界全部のようなbluesで覆われている。

原題が「Black Like Me」。これが「私のように黒い夜」と訳されるに至るまでの、言語化されたものと読む私の出会い、理解のいきさつ、鏡の方法。

2022.02.25

このあたりは少し優雅なエリアで、宅配便のスタッフの人などから受ける扱いが今まで自分がいた場所で受けて感じてきたそれと違う。

引っ越してきたときにこういう些細な違いにいちいち気づいてびっくりしていたのだった。わたしの歳や格好も関係あるんだろう。いちいち気づいてびっくりしていた感覚を忘れかけていたなあと、さっき思い出した。