日記

とみいえひろこ/日記

2020.12.12

内倉真一郎[私の肖像]ブルームギャラリー(十三)。

もうその人の首も背も、黒幕の真っ暗な闇に溶け込んでしまっている。輪郭がやさしくなって、顔だけが残って。

今日はデータのつくりかたってひとりひとり違うという会話をすこしした。写真家こそひとりひとり撮る方法が違う。スタイルがある。そのスタイルをわたしたちはみているのだと思う。

黒幕の前に立つひとを大量に連写し、その大量の写真から作品になる1枚を選ぶ。そういう方法でこの写真家は写真を撮る。撮ることは選ること。

大量の「ひとり」のうち、1枚として同じその「ひとり」がいない。「無数の自分」のレイヤーが重なり合っている残像のようなものを「そのひと」とわたしたちは呼んでいるのではないか、というようなことが作者のことばとして書かれていた。「無数の自分」。自分があずかりしらない大量のバラバラの自分。そのひと。そのひと、という流れ、スタイル。

 

選る、撚る、寄る、依る…力、作品表現というのは受け取り気付く力がほとんどすべてなんだなと思ったのと、無数の矛盾の寄り集まりによりもう誰でもなくなりながら生きている「そのひと」の〈居る〉ということの力に内側から「元気」になった。ひとりひとりのそのひとの顔のなんて複雑な、吸い込まれそうな、顔。

内側から自分の身体に備わっている「生きる力」をむくむく圧され、こねられるような感覚を「元気になる」感覚というのだと思った。そして、自分の生きようとする力を受け取るにはエネルギーがいるものだ、とつくづく感じた。それで今日ぐったりしている。

表現に出会い、受け取るという表現をすることが求められること。それが写真をみるということなんだ。みることでみる自分が表現をはじめさせられるということ。

元気になるとは「いいこと」なのかどうか。ほんとうは「元気」という状態は「いいこと」や、「〈自分が〉喜ぶべきこと」と自動的に結びつくものじゃないんだと思った。

ときどきその「自分が生きようとする力」に負けたり重荷だったりするものだ、とも。

3つくらいずるずるに延ばしていた用事、というかできれば自分のたのしみのために行きたいけどおっくうだと先延ばししていたことをした日。これからもこういう感じで何ヶ月かに1回、1日ほかのことをせずにこういう小旅行スタイルで行ければいいのかもしれない。すぐ手をつけないという罪悪感も薄れるし、家をあける罪悪感も薄れる。外にあまり出ないようにするというニーズにも応えられるからよかったと思えるし。

久しぶりの阪急電車はかっこよかった。阪急〜、と心のなかで思った。イチョウが黄色く連なっていた。大きな葉っぱが道路沿いにあった。