十七月の夜のカタン 娘はいまゆめみるごとく領地拡げて
4月の日曜の夜、睦月都さん『Dance with the invisibles』を読む会をしました(「かばん」のそこここ 4月28日(日)21時-)。
「娘」って誰で何なんだろう、誰にとってなんだろう? この娘はいったい誰とカタンというゲームをしているんだろう?
ひとつの読み方として、「十七月」という月は存在しないから、という話が出て。
発言にあったように、存在しない月の夜にいる存在しない娘がたとえば、「娘」を「娘」と呼ぶ「わたし(=連作中の「母」の実際の(「実際の」というのもなんか変ではある)娘)」とカタンのゲームをしているとしたら、「ゆめみる〈ごとく〉」だからここも裏返り、現実的に領地を拡げているということになる。
もし、ここで書かれている(そう、「書かれている」)「娘」が、生まれなかったもの、ないもの、この世界ではないということになっているもの、この世界では生き残れなかったものなら、
同時に、この世界でないところで生き残り生き延びているものなら、生んでいないから「母」という名でないわたしだけがそれを知っているものなら、内部にいながらわたしとはまったく別のシステムで生きる他者であるものなら。
その他者が領地を拡げてゆくのに任せ、自分の内部にある、ある場所を明け渡していくということのたまらない気持ちよさ、清しさ、規則正しさを思った。明け渡していくことではじめてそういう場所が自分の内にあったと知り、知ったと同時に失うことで、残された自分をかなしみとともに知っていく気持ちよさ。
そして、内部を「自分の内部」だとわたしが思っていたその根拠はどこから来ていたんだった? とも思う。
「娘」って誰で何なんだろう。私が想像していたのは、「わたし」の「母」が思う「娘(=わたし)」のことを、母になり代わって「娘」と呼ぶことで想像して捻出しようとする「娘」という存在やその背景にうごく何かだった。歌になる前の黙った時間の激しさ。
・当日、話のなかで出た歌の一部
手をとればワルツは円を描きそむ飴色の午後のひかりのなかへ
SNICKERSにあめりかのやはらかなビニール 会ひたき人と会へるだけ会ふ
わが飼へる苺ぞろりとくづほれてなすすべもなし春の星夜に
飼ひ猫が春の小庭にあそびては連れかへりくる蜘蛛・蜥蜴など
この歌が好きで、と人が話すのを聞いて、自分が刹那的に思うこと、また自分が長く抱えて思っているはずのこと、自分が好きだと感じることなど、なんだかそんなに、どうでもいいことだなあという気持ちになった。
「自分が」こう思った、このことがこのように好きだった、という感情の動きの、どこまでが自分の思いだと言えるだろう?
・読む会の前に、惹かれて付箋を貼っていた歌のいくつか。
これらの歌に心動かされたり止まったりした自分も、なんとなくもう遠く他人のように感じる。なぜ、どのように、どこが好きだったのか、たぶん今でも言葉で説明できるけれど、そのときの自分をすっかり失ってしまい、別の自分としてこれらの歌を(これらの歌の生まれる前の場所に流れている複雑でたくさんの何かを含んだ歌を)眺めている。この感じは、複数を表す「s」や「たち」の存在を感じる感じに通じているのかもしれない。
爪たてて無花果を割く ほんたうにほしいものなら誰にも言はずに
さみしさに座るキッチン ほろびゆく星ほろびゆく昼のかそけさ
三十歳になるのは この世にひとりぼつちみたいな表情をやめたこと
胸が痛むといふ言葉さへ鮮しく秋の林を乾かす風が
鮮・あたら
靴ずれを見むと路上にかがむとき雨の路上の音量あがる
行行重行行 ワルシャワに十一月の初雪が降る
行行重行行・ゆきゆきてかさねてゆきゆく
睦月都『Dance with the invisibles』