アレッサンドロ・バリッコ 鈴木昭裕/訳『絹』(白水Uブックス)
物語を必要とするとき、誰もが、いつも、「それ」(「遠い昔からのやりかた」。「ものごとを呼ぶ名前がないとき、ひとは物語の力を使う」)のことを思う。物語が力を得てしまったとき、別の物語が必要になり、「それ」のことを思う。
「それ」があることは確かで、「それ」を仮にもういちど「物語」と呼ぶときに、『絹』を、物語をめぐる物語の小説、として読んでみた。
「それ」を取り巻くもの。憧れと、利用して乗り越えることで生き延びたいという願い。「それ」によって呼び出されたそれら混濁した心を同時に抱える持ち主を通して炙り出される、弱さや苦さ。醜さ。
「それ」に主人公は出会ってしまう。「それ」にのまれたら死ぬ、とわかりながら、のまれないようにおそるおそる近づく。乗り越えたいという欲望のため。そしてその主人公の影に、〈憧れや生き延びたいという願いを抱えられない場所〉があることもまた描かれる。「それ」に主人公が出会ったことを知っている名のない人物が、「影」という場所にいるという書き方によって。「影」という場所に満ちている、語りよう/語られようのない物語を、作者は書かずに書こうとしたのではないかと思う。〈「影」が「それ」になりたいと願った〉というフィクションを差し込むことによって。