日記

とみいえひろこ/日記

2024.12.14

西川勝『ためらいの看護』

担当の患者が亡くなった。それを見てきたものとして、受け取ってきたものとして、永遠の謎になってしまったものを時間をかけて受け取るため。そんな意味があるだろうか、その夜同僚と飲み潰れたことがひとつのエピソードとして書かれていた。わたしならたぶん飲み潰れることはない。飲まず、その場に佇んで、明日自分がどう生きていくかを考えるのだろう。そこが立場の違い、抱えるものの違い、前提の違いなんだろうな。わたしは自分の位置しかわからない。ほかとの比較によってわたしには何が適切か知りたい思いがつよく、愛憎まじえながら少し離れた隣にいるだろうものの見ているものを覗き見る。

テイクケア、相手の気がかりを引き取ること、相手から差し出されたケア(ケアとはおそらく、言葉にならない謎であったり、障る感じであったり、問いであったりするのだろうということが見えてくる)をどう見てどう受け取るかということについて。パッシングケアが壊すものについて。「ことばになり切らない身体の澱みとしてのエロス」について、書かれていた。

 

「あんな惨めな思いは、あんたには想像もできないだろう」

 

囚人は自分とは関わりのない苦しみの二重奏に巻き込まれ、憐憫の苦悩に苛まれている。

 

わたしはどこにいてどのように目の前のものを見て意味づけているのか、誰のために。自分の位置がどこにあるのか確認したくていつも、

もうひとつ、酔っていないかどうかということも。