日記

とみいえひろこ/日記

森本淳生 ジル・フィリップ/編『マルグリット・デュラス〈声〉の幻前』

対象αとしての声は、発話されたシニフィアンの連鎖としてのパロールには還元されない。ラカンが声を対象αと呼ぶのは、声というものが、私たちの欲望がそれへと引っかかることがある、取り替えのきかない(かけがえのない)対象でありうるからだ。とすれば、逆説的にも、私たちが他者の主体性に、いや、その還元不能な核に、最も決定的なしかたで出会うのは、対象αの姿においてである、と考えることができる。

 

マリー=テレーズが声を発することができないという事実は、彼女が声の水準で対象αとして現前するいっさいの可能性を奪う。といっても、マリー=テレーズには対象αとして振る舞うもっと別の経路があった

 

しかし、日常生活において小さからぬ重要性を持つ言語的コミュニケーションの平面では、主体性のなかの最も還元不能な何かが出会われるあの余白、あの深みが、マリー=テレーズには与えられていなかった。それゆえ、一方では、マリー=テレーズはランヌ家においてひとつの対象、といっても対象αという意味での対象ではなく、モノという意味での対象、すなわち、主体性を欠いた対象、それゆえ道具的対象といってもよい対象に留まっていた。

 

「平面?」など、つまづきながら、とても近いものを知っていて読んだこともある、そう強く感じたので、何度か読んでなんとなく理解した。

「対象α」はここで書かれていた「肉声」、とひとまず。でもわかる。わかる、この感覚だと思う。「彼女が声の水準で対象αとして現前するいっさいの可能性を奪う」、ここは失礼で極端だ、と思い、でも納得する。つづきに書かれていること含め、よくわかる。

「しかし」以降のところを、自閉、自閉性と呼ばれるものと重ねながら理解し、わたしはわたしのしかたで味わう。ぺったりと、どこまでもひとつづきの平面でつながっている遠く近くを見るしかたで。目の前のことも目のなかの内がわのことも、肌にいつも触れているばかりに、近すぎる、深さがない、隠れるところがない。そういう味わい方で。

「対象αとして現前するいっさいの可能性」が奪われているばかりに(可能性がないのではなく、「奪われて」いる。ただ、では誰に「奪われて」いるのかな?とも思う。可能性どころか、別のしかたで現前しているのに、それがここでは受け入れられずに返され、自分のもとへ帰ってくるα=我が身を受け止めつづけている、ともいえるのでは)「モノという意味での対象、すなわち、主体性を欠いた対象」としての彼女だけが受け入れられ残っている。そこに、はっとした。

「主体性」についての話をしていたので、目に留まったところ。

 

「声なき身体, 静かなる犯罪」立木康介(森本淳生 ジル・フィリップ/編『マルグリット・デュラス〈声〉の幻前』(水声社