日記

とみいえひろこ/日記

2024.03.09

アルモドバル監督の映画を、続けて観た。ひとつはいつものように途中で話のつながりが分からなくなってしまって、また観ようと思う。

『オール・アバウト・マイ・マザー』、また観たい、いつか。いつもこの人のつくるものは、複雑で、多面的で、多層的で、襞のようで、襞はいっときも揺れ止まない。他人の物語をあやういくらいに孕んで、傷口をひらき、自らの別の場所に別の繋がり方をし、失敗し、また孕んで。独特の時間、独特の、言葉にしようがない自己治癒。襞は薄く、傷だらけで弱く、裏側にいつも張りつく「分たれた残りの自分」からの自分への怒りがあるのを知っている。それを享ける側にいて生きる、生きる、しかないなかで、どうしても手離せない傲慢さ、愚かさ。

何度も、彼女は行って、帰ってくる。そうやって、独特の、長い長い、唯一の哀悼が創られていく。

「そうやって」生きた末に死ぬということは事実、自らの運命でもありえるということを感じる

対象の死を認め、「現実のわたし」、「生きているわたし」に戻らねばならないのだが、わたしはその現実のうちで「生ける屍」として生きていくのであろうことを予感する。

「メランコリー」が「去っていった対象」を自分のなかに取り込み手放していくという過程、経験を経て「正常」な現実へ復帰していく。とされる心の働きについて。現実が「正常」ではない者の「哀悼」の過程はそれとはちょっと違うのではということが書かれていたところ。

正しい言葉はひたすら正しい言葉であるのみだ。それがわたしのものになるためには、わたしの中でふたたび体験されねばならない。わたしがわたしの仕方で体験しなかった言葉とは、ただ単に宙を漂う情報に過ぎない。

高秉權 今津有梨/訳『哲学者と下女 日々を生きていくマイノリティの哲学』大事な本になってしまって、また読みたい、いつか。