日記

とみいえひろこ/日記

小林美代子『髪の花』

「君、おかしいじゃあないか、昨日まであんなに病気じゃあないと頑張ったのに、今日、先生の言う通り全部病気でしたという、そんなに急に判るはずがない、誰かに入知恵されたのでしょう、どうして昨日まで事実だと思ったことが、今日は病気だと判ったのです。その理由を言いなさい。どうしてだね」
問い詰められて絶句した。準備のないまま切り出したので答えようがなかった。
「あのう――目が覚めたように――」
「まあ、まだ君はそれが全部病気だったとは、思っていないよ、事実だと思ったり病気だと思ったりしながら、よくなるものだからね」
先生はそう言って、隣に座っている患者に歩を移した。
病気ですと言っても受付られず、どこまでが事実か証明し教えて貰いたいが、教えてくれる人もいない。結婚もせずに一人で人生を渡ってきた自分が、今程哀れに思えたことはなかった。
案外世の中とはこんなものかも知れないと、悟るつもりになるが、それでは心の痛みが柔らがず、

「幻境」

 

世間にどう扱われようと、自分の価値を自分で見つけ、それを信じない限り、りえ子の自由に自分の道を選び出して生きる処は、何処にも本当はないのだ。
母上様、あなたは実際に私をお生みになりましたか、それがはっきりしないと、自分を確かめることができないのです。それともこう疑いながら、私は又狂い始めるのでしょうか。

「髪の花」

 

 

「髪の花」は、これを読んでいるのか読んでいないのかもしれない、いるのかいないのかもしれない、母に向けて書かれる手紙の文体、内容で貫かれている。

「母」という存在、役割が、そこにいて受け止めるということだとして(産んだ「母」でなくてももちろんほんとはいい。そういう意味の「母」ではない)、受け止め映し返すことでただただ危うく生を溢れさせつづける者自身が自分と向かい合うのを促すことだとして。

受け止めるものがいないこと、どころか、いないのかいるのかもわからないことは確かに、溢れさせつづける者自身の存在、存在「感」を危うくする。この「感」じが事実なのかどうか、受け止められずさまよいっぱなしになるものが自分のからだのなかにあることになる。

ただの「感」だから、自分でありかたをつくっていくしかないのに。

自分の生に圧倒されそうな苦しさを抱えきれないとき、自分と向き合う手段を見つける手段として、溢れた先の限界を確かめようとしたり、疑いにとらわれたり狂い始めようとするのはとても理にかなっている。理にかないすぎていてまっすぐであるところが、複雑で雑多なもの、理屈の通らないものを我が身に組み込むことを遠ざける。そういうこともどこか透明に書き込まれていて、行き場がない。

というか、受け止めるのは読者しかおらず、読者である私が、私が自覚なく/自覚しつつ溢れさせ受け止めさせてきたもの、さまざまな私の理由で受け止めるのを拒絶してきたものたちが文字に映し返されているこの姿とどう向き合うかを、この昔の文字から見られているということ。行き場がここしかない、ということ。