日記

とみいえひろこ/日記

2022.11.17

『親密性』レオ・ベルサーニ アダム・フィリップス 檜垣立哉 宮澤由歌/訳(洛北出版)

 

どういうことを書いてある本なのか、なんだかまだよくわからないで読んでいる。

〈それ〉があって、わたしはあまり〈それ〉を受け入れたくない。でも関わらざるを得ない。ほかの誰もと同じように、これまでと同じように。〈それ〉には正解らしきものも、明らかな間違いもある。正しい受け入れ方と、間違った受け入れ方、ということ。正解と間違いを分かりたいと思う。その間であれば、どの受け取り方、受け入れ方をしてもいいのだと思う。自分がどんな受け取り方、受け入れ方をするかさぐり、都度決めて、わたしはわたしの範囲で仮のありかたをつくる。それを、〈それ〉のひとつの小さな例としてわたしは伝えていくのがいいのだと思う。〈それ〉を通じて、〈それ〉の枠内でつながったものへ。

伝え方は、相手の受け入れ方のスタイルを読むことからはじまる。コーヒーをいれて飲む時間、みかんを食べている場所から少し離れて、何も話さずに座っている。観察する。彼のスタイルを読むために。今はこれが目的、そう細かく決めていくのが自分の支えになる、と知る。

 

「精神生活において能動性よりも受動性を優先させる」ことを超えて、「完全な受動性と一致する存在と愛の状態の本性をきわだたせる」、「静寂主義的哲学」のことが書かれていた。「自己から自己をまったく不在にすること」、「主体が自身を不在にするとき、そしてこの主体なき愛がその対象に据えおかれ、自身がその対象に吸収されるときに、愛はまるで「純粋」であるかのようである」シモーヌ・ヴェイユの文章を読みたくなったりしながら、

自己剥奪そのものは、自我の抹消というよりは自我の散種といった、自我膨張の一種としてとらえなおされなければならないのではないか。自我のみが愛することができるという逆説的な結論がここから残存することになる。

何かがいつも残ってしまう。自分が何かであってしまう。純粋、という枠もそらぞらしく感じるし、圧倒的に思う、ざわざわ混線しているのはわかる。なんだかまだよくわからないで読んでいるわたしが既にここにいてしまい、わたし自身はどういうことを書いてある本だったろう、と後ろを振り向く。