日記

とみいえひろこ/日記

2022.12.17

音声でガイドをつけたら速く走れて嬉しい。基本的に2日に1回走っているので、走らない日も朝1時間くらいはひとりの時間にしたい。と、仕事などが落ち着いてきたらいつも思う。

高柳蕗子さんがどこかで書いていた、それぞれの理由で短歌をひっそりやめる人の無言さについての話(だったかどうか。短歌をやめる人はたくさんいる。やめたあとのことは語られない。「短歌の話をするのは短歌をつづけている人同士だけだ」ということをいつも覚えておきたいと思った。どの場面でも、言葉を話せるのは「生き残った」者だけ、ということ)を最近よく思い出していた。

わたしもあとひとつトラブルなり何か入ったら、誰かとの、時間との、約束を介して短歌をつくることはやめるだろう。いつでもできるものだから、いちばんはじめに手を放すと決めている。ものの、できるだけやめない仕組みをつくったのも過去のわたし。

 

人が亡くなって、その人の一部を知っている人たちが、その人のことを語り出す。語る内容は、それぞれの人のなかだけの真実だった。表に出された真実の印象が編まれて、亡くなってもう何もない人の、印象をつくりだす。たぶん、印象と、もう何もない人自体は、かけ離れているのだと思う。たとえば「戦争」もそういうことなんだろうとリアルに思う。自分は自分のことしか知らない、知れない。

 

大庭みな子『浦島草』(講談社文芸文庫)を読んでいる。まんなかに、生きながら何も語らない者がいる話。