日記

とみいえひろこ/日記

2022.12.18

野口裕二『ケアとしての物語 ナラティヴ・アプローチの世界へ』(医学書院)

 

「シリーズ ケアをひらく」の本で、何度か読んでいる。

今わたしがしていることは「ベッドサイド・カンファレンス」だ、と思って安心した。

患者に関するさまざまな情報や今後の看護計画などを、ナース・ステーションのなかで申し送ったり相談したりするのではなく、患者のベッドサイドで患者の聞いている前で患者とともに行うというやりかた

語らなかったことを語りはじめるとき、たとえばAC、共依存、わかりやすいストーリーにはまってしまうタイミングがあるだろう。それは通過点であって、そこを抜け出すためには(も)、自分で何度も語り直すこと。語り直すことで光を当てる部分がふと変わっていく。ユニークな語りがこぼれ落ちる。オルタナティブ・ストーリーはそのようにして生まれる。生まれるのを手伝うために、場所を変える、立場を変える、役割を変える、組み合わせを変える、そうやってすでに生まれているものに能動的に気づいていく、読んでいくということができると思う。

その場所、その時にそれを「聞き留める」何かがあってほしい。目撃者、証人のことを「withness」と書かれていたのが印象的だった。

 

やっと手に入れたオルタナティブ・ストーリーがいつの間にか新たなドミナント・ストーリーになって、そのひとを抑圧し支配してしまう。

だから、何度も語り直すこと。「永遠の語り直しのプロセスにおける一場面として現在をとらえること。」
たとえば「問題」という概念、「語り」「ケア」という概念をどのように意味付けるか、ということについて。問題を個人に内在化して考えるかぎり変化すべきはその個人になる。「問題」を「関係」と捉え、その「関係」を変化させるには、

「関係」を作り出してしまう言葉、「関係」を維持している言葉、「関係」を隠蔽している言葉に敏感になり、その言葉のありよう、語りのありようを変えていく

こと。

与えられる意味と創り出す意味、両方から押し出されるようなかたちで「病い」という存在が示されていた。ということは、病いと存在はイコールで結ばれるのでは。