日記

とみいえひろこ/日記

2023.11.07

2016年に「かばん」誌に提出した文章。

 

 

みつめ・られる(あう)・たんか
とみいえひろこ

 


 大阪は震度四だったみたいですが、地震怖かったです。会社の帰りに見たいつもの川が、異様にきれいに見えました。まだ自分の感覚がすこしふわふわして、パラレルワールドな感覚が近しくなりました。できることはできるうちに×こわい×そのほかいろいろな感覚を自覚的にはっきり立たせようとしている、うちに、書いて提出しよう。


 ロバートは聴衆の方を見やりました。「私たちに知的障害があるから、あなたたちが私たちのことをどう考えているか知らないと思わないで下さい」。
 私たち=「健常者」の急所を突く発言である。一先ず、私たち=「健常者」にとって「知的障害者」のことは、絶対に知らない=解らないとしよう。その時、「知的障害者」の側は、私たち=「健常者」のことを知っている=解る、と言うのだ。これほど、私たち=「健常者」にとって屈辱的な現実はないのではないだろうか。私たち=「健常者」が、「知的障害者」のことを、知らない=解らないと言っている今この時も、彼/彼女らは私たちのことを見ている。その視線から目を逸らさず、見つめ返すために、本書の成り立ちのソフト面に注目したい。
(たくにゃん 「知的障害」と「生の芸術」の臨界点『スピラレvol.05』より)

 


(短歌を、見つめ返してくる装置だとも思う。)
(これは短歌、と差し出されて出会う。目の前の、この、差し出されたものは今の・今までの自分に、何らかの意味や〈いいこと〉をもたらしてくれる。と、期待して読み始めてしまう。自分が自分以外の何か・誰かを害したり壊してきたと夢にも思わず、何かをもらえるはずだと期待しつつもけちくさく疑いながら。そうして、目の前に現れることをこちらが勝手に紐付けて自分のものにしようとするなかで、こういった期待は必ず外れる。自分は加害者側だと意識して思っておくほうがいいと思う。起こっている「こと」を少しでもまっすぐ見たいのなら。)
(読むわたしは読まれている。読まれて、ページを開かれる。文字のすきまを透きとおるものとして、受容されにいく、されないかもしれないけれど。短い歌という既視感のなかにある未知を拒まないことでもある。)

 


背もたれに背を任せきり気がかりも抱えたままに身を寄せる闇
猫も灯も絶えた窓から。「ここでしか出会えなかった」光の都【ブエノスアイレス
森本乃梨子

 まず闇があり、はつらつとした女優の演技や獲物を狙う目、異国の光…さまざまな光がある。ものを想い、過去や異の世界を語ることで、光をここにもってくる手さぐりがしめされているのだと思う。
 深い悲しみを抱えているとき。「ここ」にいると思うことがしんどくてトリップした先も、たちまち「ここ」になるということ。遠くの「ここ」へ行き自らの「ここ」を確かめることで自らのありかを描くという方法や知恵がある。
 一連をうっとり読むなかでわたしが冷めてしまったところは、連作としてストーリー的にちゃんとオチがついていて、オチをつけたがる癖や何をするにもそれを強固なよりどころにしてしまう癖が自分にもあると思ったところだった。ただ、また、オチをつくることは、スタートの位置をはっきりさせることでもある。ひととおり読んではじめの一首へと戻ると、ここにある「闇」がどのような闇であるかということに自覚的になれるように思う。
 タイトルに出てくる「グリーフケア」のケアとは、熟すこともその意味に含まれるだろう。そして、熟すことは本人が抱えている「闇」をさらに深くする行為でもあるだろう。自らの根拠ではないかとうすうす思い、問うている「闇」があるとする。「任せきり」「抱えたままに」するには、とても絶妙な操作や力がいるだろう。それは、どうしたって動きまわろうとする心を、自分で見極めながら意図して「任せきり」「抱えたままに」するということだから。背もたれや気がかり、未知の闇というかすかな〈徴〉にまもられ、包まれながら、人ひとりぶんの存在が浮かびあがる。背もたれという未知の闇に自分が寄せた闇は自在にひろがり、ものを想い語ることでその人自身が熱や光として新たに表現され、表現されたものは何度も発生し持続する。

 


わたし誰と指切りしたの約束を破ったとたん右手が消えて
ひと夏をかけて看取りし胡蝶蘭うずめて今朝は秋のはじまり
茂泉朋子

 〈看取る時間〉というものは、 自らの看取り方をとおすことで、何か・誰か(と)の終わらせ方や別れ方を見つける時間になるのかと思った。
 指切りしたのは相手がいたからだと、そのときわたしは思ったし、今までも(右手が消えたと気づくまでも)思っていた。相手のためにわたしは約束を守ろうと決めたはず。だけど、指切りとは、相手を信じ約束を守ろうと〈自分に対して〉するものなんだった。約束は、約束をした本人のものであって、約束をした相手にとっては、約束は守られなくてもべつにいい。いつでも、指切りをした相手はどんどん先にいってしまう。わたしには約束をするということのために発生させた〈自分〉だけが取り残される。かけがえのないたったひとつの約束を、そこにとどまらなければいけない、約束を守らなければいけないという重たさによって、なかなか上手に守れない自分が生まれたりもする。
 今朝を今朝として、朽ちた胡蝶蘭を心にうずめて秋のはじまりとすること。それは、より内側にもうひとつ新しく自由な約束や意味を見出だしたということ。修辞のたしかさによっても、一連をとおしてその余韻が深く響いている。

 


古びれば化けるといふが父母よりも早く尻尾が生えてしまつた
ちちははの知らぬしあはせ長いまま油に落とす十六ささげ
村本希理子
 何を食べて生きても、人のかおかたちはそう変わらない。生き物や物質は、人という型、自分という型をコピーしながら成長し古びてゆく。成長するなかで父母から自分を引き剥がし別物にしようする段階があり、そのとき人は「化け」ているのだろう。また、「古びれば化けるといふ」。自分は意思して化けたのだとは信じていないわたしは、自分を「古び」てゆくものとして見ているのだろう。自分や周りの成長や老いを穏やかに見ようとしている気配があると思う。
 尻尾が生え、「ちちははの知らぬ」ことを「しあはせ」だと思うこと。別の世界を作り上げること。かすかな裏切りを自分のなかに感じたり、「だれか」の心や内耳に住み着きにいったりもする。軽やかで飄々とした顔で鋭いことを語る語り口が、なんだか内田百間川上弘美のようで癖になる。

 


死んでいる作者が好きだ生きている作者は私とお茶を飲んでる
まちがいをやめて真理の方向へ顔を向け死ぬための落書き
藤島優実
 タイトルの「塗鴉【グラフィティ】」の文字が強くて美しくて眺めてしまう。藤島さんの歌に、独特の疾駆する感覚や、鋭く切られたままのまだ熱いままの欠け・切り口の感覚をおぼえることがある。それは、こちらが時間をひとつだと信じ、行き当たりばったりにこの行き方と決めたスピードでもって置いていきそうなことや、無自覚に欠けさせた〈こと〉をつよく意識させられる何かが、歌のあいだにとどまっているからかと思う。歌で、時間を止めているようだと思う。(置いていくの、それを。)と、誰かが・そのとき・言わなかった、言葉に似たもので。
 「まちがい」と「真理」とがあること、自分が今すぐ何かを「やめ」ることができるということ、意図せず「やめ」てしまうかもしれないということ。また、いつでもまちがいと真理は自分のもので、そのふたつの違いはどちらへ「顔を向け死ぬ」かを選ぶことと同じようなことでもあるということ。これらのことから、いろいろなことに思い当たり、引き戻される。自分が死ぬまでに寝返ったりうつぶせになったりすることや、自分が「死んでいる」ことを内包しているということなどに。

 


知りあっているのにとまどう人に会うこんにちはそしてたぶんさようなら
柳谷あゆみ
 「とまどう人に(人に会うことについて)」というタイトルがとてもいいなと思った。人はとまどうのだなと思う。「人に(人に)」と言い換え、今が「こんにちは」のときか「さようなら」のときかを確かめようとする。「たぶん」の生きもの、ポーズする生きもの、「だろう」「なのに」と巡りめぐるものが「人」なのだろう。「ときどき」や「どのへん」や「ぶつかる」という、言葉は「分からない」ということの標なんだという一面に出会う。

 


八月のないカレンダーとまぐわいを重ねたあとで金魚を千切る
河野瑤
 河野さんの作品から、そのおもに方法意識からか、短歌を読み短歌を栄養として短歌をつくっている人、という印象とともに読んでしまうことがある。もったいない読み方をしているかもしれないとも思う。
 千切った手、まぐわいのあと、八月の終わりとこれから秋を抱えるという気持ち。そういった、ふだん言葉にし忘れるもの、消化し切れず心に〈遺って〉しまうものが、歌によって愛されなおしているのだと思う。この場にもうない対象を思い出し愛しなおすことは、あるいびつさを感じさせる。タイトルのように「異」な「景」になる。まぐわいを重ねたあとに千切る金魚は、この激しく残酷的でもある行為をとおして胸に棲むことになる。八月という月は日本に暮らす人にとって重い。〈あの〉八月が「ない」ということはないはずだろう、と自分が感じているということ、そのことがつよく意識されるということ。人は多く、ものを思うために行為をするのかもしれないと思う。

 


まばたきは世界を閉ぢる冷たくてアリスのゐない暗い世界を
新井蜜
 アリスがいない世界は暗い。目を閉じればアリスのいる世界に行ける。
 目を閉じないと生まれない世界があること。そして、人が〈目を開けつづけるべき〉だと感じる世界の存在。その存在に対して自分が負うものの重さのことが描かれてもいる。
 目を閉じればアリスのいる世界に行ける。けれども、まず目を閉じたり開けたりするときに「冷た」さがある。読んでいると「冷たくて」と「暗い」間にも、「アリスのゐない」ひとつの世界がある、と気づく。目を閉じれば、ここに書かれているとおりにいつでも、すぐにアリスのいる世界に行けるというわけでもないのだ。「アリスのゐない」、アリスも何もない、世界がある。
 「まばたき」で「世界を閉じる」やり方ははっきりとわからない。でもたしかに「閉じる」。そのことだけは確信している。その理解の前の、何もないぐらぐらしてしまうところが詩。そのてざわりを感じる歌。

 


古書店の匂いは春の抱擁を云えないことをてざわりにして
なぜ太宰なのかと訊かれふりきって桜の家の前で別れる
境目を雨戸に託す花びらの家系をここで最果てにして
藤本玲未
 読んでいて、どこかで、立ち止まってしまう。どこかささいな言葉の連なりに立ち止まってしまう。そこから戻ったり読み直したりしていると、藤本さんの歌の世界に引き込まれる。わたしはとくに最近の藤本さんの歌に対してそういう感じです。読んでいる自分自身がうねりながらふと見える潮流に誘われてゆくような感覚がある。歌のおそらく芯のところからこちらに向かってくるものはまっすぐなのに、読むときに読んでいる自分が言葉を掻き分けていかないと、その芯まで行けない感覚。また、掻き分けてこの歌のうちをサヴァイヴすることが、藤本さんの歌を読むときに似合う姿勢のようにも思う。
 「境目」も「雨戸」も「託す」も「最果て」も、「花びらの家系も」、格好良すぎる言葉のような感じはする。ただ、その前に連なる「たかが参考書」、「殴れない」弱さや繊細さ。また、「太宰」と「ふりきって桜の家の前で別れる」ばっちりさ加減。そういった潮流のなかに、自分にとって体感的に放っておけないことがあるように感じる。
 古書店の歌はとてもいい歌で、てざわりというものの醍醐味を描いていると思う。ふいに何かが起こったあとのような、何かが起こった前に立ち会っている感覚に投げ込まれる。分からないままにまず表象されるという、〈ことの起こり〉を、激しくもゆったりと見ているような感覚にもなる。

 


雲たちの横腹にほのぐらい傷があり集合意識をゆらす八月
井辻朱美
 タイトルの「クラウド庄」とは〈ここ〉なのだろう。自分のいる〈ここ〉はクラウド庄の風景。
 雲のあの影は「傷」なのだといわれ、はっとする。雲こそが〈個〉で、〈わたしたち〉のうちの〈わたし〉それぞれは〈個〉というほど大人ではないのだろう。〈わたしたち〉という集合のなかの自我や意識のとんがりである〈わたし〉。小さく、安全に、命をつないでいくための。地球や宇宙という〈体〉があること、自我や意識としてここに散らばっている〈ゆらぎ〉としての〈わたしたち〉を思う。
 ほのぐらさを醸す傷を感じるところに、読むよろこびがあった。「雲」「たち」「の」、「横腹」という言葉の連なりから〈かわいさ、健気さ〉のようなものを感じ取ってしまうところにもよろこびがあった。そして、そう感じ取った自分の、この歌を読む前の自分からの変わりように感動するところに、この短歌を読むよろこびがあると思う。

 


みちなりにすすみなさいと淡々とナビゲーションがみちびく夜明け
東こころ
 フェイントかけつつも規則正しくおさえられる「み」の音に、文字通りみちびかれる。時の感覚とは人にとってかなり感覚的でいいかげんで都合のいいもののはず。その意味で、本人にとって時の感覚は信用できるもののはず。「夜明け」という時間は、正しく待っていれば、唐突に絶対的にやってくる時間だと思う。自分が自分に対して〈自分の夜明け〉をゆるすということと同じ意味をもちながら、「夜明け」という時間は訪れる。今はわたしの夜明け。不思議な力が与えられてみちなりにすすもうと決める。淡々と決めることはだいたいすごくうまくいくように思う。


特別なものがいくつかみえそうな西日暮里の翡翠眼鏡店
咽喉仏シュッと裂けてどうか世界が平和でありますように
山下一路
 多くの人は目や手の機能に多く負いながら、自分は誰か、ここはどこか常に確かめようとしている、と思う。「特別なもの」は「いくつか」で(が)いいし、それは「みえそうな」くらいはかないものなのだろう。みえそうでみえないから、よく間違う(分かったと思ってもそれが間違っているということも、多い)。みるまえにみていて、祈るまえに祈っている。「世界が平和でありますように」と小さな声でも発声するときに、自らの体のうちに抱えている仏は裂ける。「どうか」によって不安定にさせられた音、律が、喉のうちで長く漂う。
 読んでいてつよく見つめ返される世界観だと思う。

 


思いだし笑いは誰にも気づかれず壜のコーラの格別なこと
ひき際がきれいでしたね花束はどこかで燃えて香りをはなつ
小野田光
 かばん関西歌会で出された「ひき際」の歌は、「都会の暮らし」というタイトルを与えられたんだな。「都会の暮らし」。ひょっとしたら誰かがどこかで感じ、引き合っているかもしれない。そんなささやかで細やかな世界が、炭酸のようにたくさん溢れてつづけている。そんな「どこか」が描かれていると思う。
 傍観者はいつもどこにでも必要。しかしまた、あくまでその世界のなかで、「思い出し笑い」は誰にも見られず気づかれないことでたしかな「思い出し笑い」になるのだろう。思い出し笑いが完璧になることで、なぜか、誰かにとっての「壜のコーラ」が「格別」になるという感覚も、分かる気がする。
 漢字の選び方や歌うトーンが繊細で丁寧で、そういったところから、読んでいるときに見まもられているような、かすかな、自分のうちの「誰かの」感覚が芽生えてくる。

 


美しいかおりにみちてゆくまひるおもえばおもうほどひかる月
本多忠義
 このことは、現実的に、目に見える現象として、そうだと思う。「おもえばおもうほどひかる」と多くの人がおもっているため、スマホを押せば光るようになった。ひかることがいいことか素敵なことかは置いておいて、そういうふうに世の中はまわっているものだと思う。認識するその仕方にこだわるところが自分にも人にもあると思うけれど、表現しながら分かろうとすることの大切さを思わされる。


ハンカチをふくらます風を見ながら窓のガラスを磨いています
ながや宏高
 語調からたしかに何者かに話しかけている感じがあって、ながやさんの歌はいつも何に話しかけているんだろう?とも思って読んできた。位置確認のようなものかもしれない、とも。すべての歌から感じるのはあらゆる視点にあらゆる立ち方で立つことができそうな何かの存在で、枝葉の先々に棲む小さなひとつひとつの目がそれぞれ奏でている感覚にときどき驚かされる。
 「ふくらます風」の韻律は心地よく、一個の生命のうちから膨らんでくる圧は、その一個の生命である自分で抱えきれる、ぎりぎりの願いでありおばけなんだと思う。歌のあいだに、願いが叶っても叶わなくても、どちらでもいいような涼しさが宿っているような気がする。その涼しさが浮世離れしていて、向こうの世界に通じる穴の存在に気づかせてくれる。

 


ここにくる道ではタトゥーの人たちが月をみていた ヒロシマの月
〈ただ生きて、会う〉こと仕事にしたならばどんな花を食べるのだろう
杉山モナミ
 カタカナの「ヒロシマ」を、優しく大きく、心に沁みこんでくるもののように感じる。「タトゥーの人たち」がこちらに一気に届ける、その時その場所の空気感、隙間感、湿り気や昏さ…からだったり、「月をみていた」という詩が率直にあること、「月」という言葉のゆれるような作者の扱い方からそう感じるのだろうか。簡明で印象的な「ここにくる道」のことを、自分もわかるような、思ってきたような、とてもかなしい歌のような、たったひとつの言葉だと思えてとても好きにもなる。わたしも、ほかのものも、取りこぼしてきたことや手の届かないも含め、すべてをスポンジのようにじゅんわりと包んでいるような歌。
 底につよさや明るさがたゆたっていて、はかないながらちょうど良く心にとどまる世界が表されていると思う。

 


白猫の瞳【め】をみつめおり 口付けの意味を知らざる舌に精液
青木俊介

好きなひとに吐かれたことば思ひつつ日がな平和を願ふ幸せ
小佐野譚

蝉たちの死を包むため夏枯れの木の葉が静かに集まる
原田洋子

むらさきのうみかとおもうあすふぁるとひかりはみずにあらねどおもく
おさやことり

ウィスキー くすんだ色に冬あって 白紙が静かに折られいる生活
古市元