日記

とみいえひろこ/日記

2023.12.05

つまり、当事者である「あなた」を研究することは、「あなた」が生きている場所から、困難や問題を抱えている「あなた」の内側からの体験について「語る-語られる」という関係ととらえてもよいでしょう。

 

そして、「語る-語られる」という関係の中で、一緒に同じ景色を見ようとする者たちは、「意味のある対話」の中でお互いの世界を拓くことになるでしょう。

 

読み終えて戻って、この言葉に込められている「あなた」論になにか救われる思いになる。でも。と狭まったエリアで思う。私はどうしてものれないと思うしものがあるし、違うと思うこのひとしずくのほうを握っている側にいたいと思ってしまう。

またそのパターンかよ、またその型にはめられ語られる「あなた」かよ、と思って読むのをやめ、何度かやめ、読んでいるうちに、同じことを思って言っている、そういう言葉に会う。それで読み進めた。

 

表向き“「障がい」者とともに”とあっても、実際は抑えつけられた生活を強いられている。人間らしく生きたいと思っても、実際はヘルパーに合わせて「障がい」者が生きている。ここには、「してあげる人=『介護』者」「してもらう人=『障がい』者」という発想が貫かれているわけです。

 

適切な振る舞いって何ですか? ここで習ったことをしていれば、社会に受け入れられますか? もし、そうだとすれば、それは自分の本心からしていることではなく演じているだけで、自分や人を騙していることにはなりませんか。

 

もし、「あなた」の声を聴いてくれるのならば、「あなた」は自分の弱さに気づき、自らの力で克服していくのではないかと考えることもあります。そうであれば、「あなた」にとってそこに「障がい」という診断は必ずしも必要ではないのかもしれません。

しかし、一方で、「あなた」が育ちの中で抱えた「生きにくさ」を生きてきた結果生じた「あなた」特有のコミュニケーションに苦慮する支援者や周囲の人間にとっては「障がい」という診断が、「あなた」と生きるために自分たちを守「防波堤」となっていることも否めません。そして、この防波堤が、私たちを「(発達障害がある)人の気持ちがわからない人間」にしていないことを祈ります。

 

「したい仕事」に必ずしも適性があるとはいえないので、その人の意志や自己決定を支えることを支援の中有進に置こうとすれば、そこに矛盾は生じます。職種がどうあれ、一般社会で働くという行為がその人の幸せに繋がるというドミナントな物語が就労支援の事業所には当たり前のように存在し、利用する人の「当事者(性)」を作り上げてしまっているのだろうと思います。

 

ほか、まなざしによってつくられていく「内なる他者」のことなどを浜田寿美男の文章を通して。

言いたいことも、思っていることも、スタンスも、さまざまな意味の優しさ深さも分かりそう。なんとか理解するところまでいけそう。そこには奥深い、強い、弱い、人間らしい世界がダイナミックに繊細に動いていて、自分達を壊してはつくりつづけているだろう。わたしはでも、最後はどうしても納得できなくてこちら側でうつむくだろう。袂を分つしかないという感じを抱くだろう。それは、わたしはあなたではないからで、別の場所ではわたしがあなただったりする。

 

山本智子発達障害がある人のナラティヴを聴く 「あなた」の物語から学ぶ私たちのあり方』(ミネルヴァ書房

 

同じこと。小山内美智子『あなたは私の手になれますか 心地よいケアを受けるために』この手によって押し返される。あなたは私ではない。こっちへこないで、思い上がらないで、理解していると思わないで、土足で踏み込まないで。