難しすぎて泣いていた。
言葉でならいくらでも言える。ひとつひとつの、わたしの目の前のことを奪われ、材料にされ、極端にされ、そちらの都合に合った事例にされ、何かのポジショントークに使われる、代理の武器にされることがけっこうほとんどではないの。内面まで奪われ。
と、思うときもある。構えがあって、何も渡したくない。
期待せず、黙って、目の前のことをひとつひとつのままできるだけ見て、見えていることだけを見て、これからは「自分が後悔しないように」ということも判断材料のひとつにしていこうと思う。そういう、判断材料や自分のモードをたくさん見つけていきたいと思う。手に持っているものが少なすぎ幼すぎるのだと思う。
何年か前は、お金と時間がなくて泣いていた。見えている状況自体は変わらないけれど、見えてくるものは少し増え、思うことも少し増えた。余裕や遊びのこと。
哲学は、忍耐を勧めているのではなく、生きていることの襞を見分けて味わうことを勧めているのである。そして忘れてならないことは、悲惨な病者は不幸であるという決めつけに対抗して、自分はこれで善いのだし幸福なのだと言い切る賢者が現存するということである。
キニャールは傷の内側で時間を書く。多くの襞を分け入って。
体を動かせるということ(能動)と、心を動かされるということ(受動)
自然に思い通りに体を動かせる限りは、思い通りに体を動かせばそれで善いと答えるのである。そして、思い通りに体を動かすという自体に孕まれている情念を際立たせつつ、それに励まされることによって、いかなる状況でも思い通りに体を動かすことが善く生きることだと答えるのである。この思いが「意志」と呼ばれ、この情念が「高貴」と呼ばれる。