日記

とみいえひろこ/日記

2024.05.25

杉山春『ルポ 虐待 大阪二児置き去り死事件』

新書で短いけれど、たとえば本人の立場から見えただろうもの、父親の立場から見えているもの、と思われるものが辿られている。

 

・虐待防止法ができたのは2000年。介入の仕方が変わって、誰もがはじめてのやりかたを見つけていく。
・目があって制度があって手立てがあって、そういうことになっていて、そのなかで「めったにないこと」ということが重なる。「めったにないこと」が重なるとすくえない、ということになる。でも、そんなこと当たり前なのでは。「めったにないこと」が重なることが前提なのでは。こういう本末転倒さを、私も、どこでも感じる。感じる、と私は思う、ここで思っている。ここで思っている。ここまでが私のエリアで…「あなた」にそれを言いたいんじゃない、何かを責めたいんじゃない、とにかく入ってきてほしくない。いつも、そういう手っ取り早い思い方になる。

 

「母親から引き離すことはできないと言われたからです。その場にいた皆に言われた気がしました」

 

芽衣さんはこれまで、母親とは何かと自分自身で考え抜いたことはないのだろう。価値観は、自分で組み立てるものではなく、外から与えられるものだった。

 

子どもたちを置き去りにした時、わが子を人目から隠し通したことに深くつながっていく。誰もからも放置されているわが子が受け入れられない。つまり、誰からも放置されていた幼い頃の自分自身を直視できないのだ。

 

二人が嫌だったのではなく、子どもたちの周囲に誰もいないというその状況が嫌だったからだと繰り返し述べている。
価値がないものとして扱われている自分自身を受け入れることは、この上もなく困難なことだ。

 

あおいちゃんを育てることで、愛情に恵まれなかった自分自身を育てようとした。だからこそ、孤独に泣き叫ぶ子どもに向き合うことができなかった。人目に晒すことは耐え難かった。