『レア・セドゥのいつわり』。いつも水色の壁が背景にあった。その壁が終わりには貧しく、シンプルになっていることに生々しさや悲しみを感じる。レア・セドゥの着るもの、着方がぜんぶ、素敵だった。人がここへ来て話していって、また訪れて、彼女の悲惨は取り払われないで、持ち帰られる。わたしたちに見えないところで抱えられつづけ、かたちを変えながら時が経つ。聞きながら、聞くことで、彼は自分のことを話す、重ねる、聞いてもらう。すごい饒舌。怖れの章もあって、訪れて呼びかけ励ます章もあって、ただ、ぜんぶ自分のなかで起こっていることだった。自分のなかで起こっていること、というのは、ときどきここを訪れて去る者たちもそうなのだけど、彼のとはたぶんちょっと違う感じがする。自分にはどうしようもないこととつねにいくつか直面しているという点で、うまく歩けないという点で、考える余地なくだらしなく手を広げて受け入れつづけている、またそうしかほぼ選べないという点で。そのことを何か別の大きなものに回収・消費させないという細い意思があるとこちらが思いたくて見せられているという点でも。
晩秋のような光のなか、もう過ぎたことについて、多くの人がどこかで出会い抱えては深く考え込むことなく、大げさにすることなく通り過ぎていくことについて、彼女がふと語るシーンがあった。出産前の不安について話す場面。障害を持った子どもが生まれたらどうしようということ、罪の設定の微妙さ、危うさの示唆。ふと思うことについて、それをしないで思いとどまるのがなぜかということ。それからも、そのときも、ずっと抱えているらしい悲惨について。
大したことではなくて、ふと軽く、ひとに思われる小さなこと。そこからとくに考えを深められることもないこと。そういう多くのことを、辻褄が合うままに、合いすぎるままに、またはもしかしたらみつかるかもしれない唯一の理由もわからないままに、消えていく、忘れていくのか、あんなに激しくとまどって立ち尽くしていたのに、それをそのままにしておくのか、それでいいとなんとなく流されつづけていて、このまま忘れてしまうのか。そういうことたちの悲しみのほうにすこし目を向ける、裂け目のような時間、目尻の皺のような時間だった。