日記

とみいえひろこ/日記

2024.04.11

音声日記をはじめたら、自分がどれだけ頭のなかで延々と話しつづけているのかが少しわかった。話している、怒っている、内面に踏み込むなと押し返している、自分のエリアくらい守らせろと抵抗している。何も進まずむなしい。

生理が来ると、やっと、ここまで来たという感じになる。やっと息が吐ける。やっとゆるしてくれた、解放してくれた、怒ってくれた、離れてくれるだろう。

配信映画、何かしながら2本観た。ほんとにほとんどぽかんと数日あいてしまって、今日から、忙しくする。

逃走劇と、ケアをめぐる、選択や尊厳をめぐる映画。あまりいいと思えずじまいで、いいと思いたかった、いいはずでその良さのところをちゃんとみつけたかったな、という気持ち悪さが心に残っている。そのあいだでいろいろなものをわたしはごまかす。映画というのは、いいも悪いもなく、観たら心に残って離れない、そういう気持ち悪さのために観るものなのではとも最近思う。

なぜこの人の作品はいつも、逃げることと直截的な接続、エロス、がセットなのか、それしかなぜ撮らないのか。この人の海は何なのか。

 

小林美代子『髪の花』、桂ゆき『余白に生きる』、ドリス・レッシング 市川博彬/訳『黄金のノート』など。

ドナ・ウィリアムズ 川手鷹彦/訳『自閉症という体験』

今日は時間があり、これはこれでとても不安。でも前ほどのわなわなする感じではない。仕事日誌をつけたり、現実をとらえられるためにできることはして、これくらい。

 

・「感覚」と「悟性」にいったん言葉として分けて、名付けた上で話が進む。「悟性」は「知性」といわれているようなもの。秩序、論理、共有、翻訳された言葉、解釈、などなどに親しい。

・「それ/it」という指向性/志向性がある。「それ/it」のための、「私」という身体、という「場」がある。

・「私」のなかに、恐怖があり、悪があり、「異邦人/エイリアン」というわからないものが住んでいる。

・ひとりひとり、ひとつひとつ、物事と出会い、知り合う様式がある。

・それをそれ〈として〉、経験を経験〈として〉出会い知り合うには、「共振」という方法がある。これは「感覚」的な出会い方、知り合い方。

・「自閉症」という名は、その内がわの現実の何をも記述しない札。

・「それ/it」の場として、「受肉」し身体のなかに入らず「そこ」に残ったものの残り方、ありかたがある。「生命」という「現実/リアリティ」のまま、傷つきながらいる(これを「悟性」の言葉で言うと「ピュア」だったり「純粋」になって、ぜんぜん別のしくみのなかで価値をもたされて、使われて、奪われて消費される、あれになるのかもしれない)。

・意識的に物事に気付くことで自己認識が起こり内省と選択が生まれる。不死を認め、生きてここに曝されている存在であることを受け入れる。その過程、その様式の違いについて。

・「私」という「場」が戦争状態になるとき、目に見えるかたちにまで悟性に届いたときにその場は「本人が起こす抵抗、回避、障害」の場と解釈される。

・感覚という内的な言語、悟性という解釈や構造の言語、このふたつの拮抗する言語同士が、不誠実さという逃げ場を舞台に、傷つきながら励まし合いながら現実がつづいてきた。

 

『さまよえる自己』と一緒の時期に読んだ。知らずしらず自分のなかで補完し合っているところがたくさん。

2024.04.09

風が吹き暗闇に包まれた時
あなたの姿が恋しい時
風が吹き 寂しい時は
美しいあなたを思い出す
元気にしているだろか
幸せに暮らしているだろうか
見えますか? 私の心が
なぜ こんな気持ちで過ごすことになったのか
見えますか? 私の心が
なぜ こんな気持ちで過ごすことになったのか

 

夜の浜辺でひとりホン・サンス/監督

黄色い壁を背に、外へ出て、煙草を吸いながら口ずさんでいた歌。ひとりで鼻をすすって、それが歌のはじまり。煙草を吸い終え、歌い終えて、扉の内にすばやく戻る。

この映画を観たのは2、3回目で、浜辺でひとり、「夜」の場面はなかったのにかかわらず浜辺の時間を「夜」と名づけるのであれば、自分が思っていたよりもおおかたのことが夢として描かれていたのかもしれない。と思った。

いずれにしても、ひとが見るものはぜんぶ夢のようなもの。ホン・サンスの映画のカメラのようなもの。ホン・サンスの映画のカメラは、見るものの意思とか暴力とか、見ることのコントロールのできなさ、ままならなさ、所詮いっときの自分の都合のいいようにしか見ることができないという悔しさ、愚かさあわれさを、思い起こさせる。観終えていつも、ああっと頭を掻きむしりたくなるのはこの悔しさに由来するのかもしれない。悔しいと、見る見られるを混ぜこんで持つ人は言う。映画の中で。「長く後悔すると甘くなる」とも。甘くなるのか。傷の癒える時間のなかから染み出してゆく甘さ、傷が残ることでそこへいつでも帰ってゆけてしまうことの甘さ。傷というものの持つ時間性、傷が場所をつくっていく乱暴さ、仕方なさ、傲慢さ。

2024.04.05

返事を待ちながら。気がかりの件を考えようとしながら。返事がきて、なんとか返したものの、ぐずぐず気になりながら。

 

『サントメール ある被告』アリス・ディオップ/監督。データコピーしながら、しゃがんだまま全部見通してしまった。観終えたのが2時。

 

・もう1回観たほうがいい。すべての映画について、そう。でも、もう1回観る時間をとらないだろう。もう1回観たら、きっと、ぜんぜん違うものを私は見て思うだろう。

ただ、でも、同時に、見る、ということはいつも一回きりしかできない。そのときによく見るしかない。

 

・ロランスはウィトゲンシュタインを学びたかった。と、願うときすでに、彼女が学ぶべきものが言語以前の状態で彼女のうちがわにあり、彼女は彼女の道を通って学びたかったこと/学ぶべきことに会った/会う。

観て、何かを知った者、私、は、観て知ったものに出会いにいかなければならない。ウィトゲンシュタインと聞いたとき誰もがそのフレーズだけは知っているあの言葉とも。読んではいないよね、何も知っていないよね、でもそういうことにしてやっていかなければならないことに乗っかっているところにいるということとはすでに出会っているよね、ということなども指し示してくる。複雑に、こちらを指差す言葉が、無言という言葉で重なってくる。観終わった今も。

 

・拒否反応を示す人は、最後のキメラの話を「母性の話」というひとくくりの言葉で理解した上で、そうしているように、見える。

 

・呪術の話のあたりだと思う、私自身の、恥ずべき、愚かな、早とちり、傷つけ、に出会った。出会っていた、とあとから遅れて気づく。ものごとに出会うときはいつも、無言、言葉がない。それを指す言葉がなく、自分で遅れてつくっていく必要が絶対にある。

 

・顔が語る感じ、ざわめきの感じがとてもよかった。

 

 

マリー ンディアイ 小野正嗣/訳『三人の逞しい女』、 G・ガルシア=マルケス 旦敬介/訳『出会いはいつも八月』、立岩真也『弱くある自由へ 自己決定・介護・生死の技術』など。

2024.04.06

こうして私は自分が望んでいたことに気がつく。引っ掻き回してほしいのだ。私たちの持ち物を動かし、見て、押しのけて、解体してほしいのだ。箱の中身を全部引っ張りだし、踏みつけ、場所を変え、床に投げ捨て、そうして泣いてほしいのだ。そして母に入ってきてほしい。

「そんなんじゃない」

サマンタ・シュウェブリン 見田悠子/訳『七つのからっぽな家』

 

なぜ、なぜ、なぜ、なぜだ、なぜ、これくらいのことが、こんなに、こんななのか。ここにずっといて、ものすごく微妙に変わるところを見ながら、ずっとここにいる。ほんとうに、

だ。

いろいろ重なって

自分の「思う」ことを信用していない、しない。

 

内海健『さまよえる自己』など。

 

2024.03.31

からだがけっこう、みるみるうちにしんどくなっていて、14、5年前頃の時間をこれからやり直すようだ、と受け止めている。前よりもう少しうまく応じることができればいい、できないとおかしい。

『捨てがたき人々』。後半、ばばばばっと人の、わたくしの醜態が顕になってゆくところ。むなしさを噛み締める、思い出してしまう。ほんとうに、何なんだろう、なんて醜く愚かなんだろう、なんでいったい、生きていられるんだろう、わたしは、人は。

川手鷹彦『イルカとライオン』、中村隆之『第二世界のカルトグラフィ』など。最近読んでいるのは場所のこと、唯一の、それぞれの唯一のもののためのそれぞれの場所のこと。

2024.03.29

ここ2日くらい、自分が十四、五才の頃にすごく好きだった人の曲を聴きながら過ごした。ら、自分のおさまる範囲が、取捨選択が、スタンスが、ちょっと思い出せたように思う。その頃から何も変わらない。納得いかないものはたぶんこれからも納得いかないだろう、名付けられているものの意味もわからない。名付けられた途端にまったく別のものになってしまうのだろう。もう、いいや。など、など。

ひとまずひと段落したのち、きのうも今日も進めなければと思うものの進められず。成り行きで休憩になった。ものの、できない、できないで、やることリストを何度も書いている。

何年も迷いつづけている応じ方、というより受け止めが、やっと少し、独特のかたちになっていくつかの評価軸においてなんとか良い方向を向くことができてきているんじゃないかと思った、今日。受け止め、だけ私は見ていたらいい、ほかは関係ない、など思う。

 

生まれ出て、わたしたちは苦しみと必要をおぼえた。泣き声をあげ、助けを求めた。

 

待つことの忍耐を次第に学んでいった。すぐに助けが来ないときに自分自身に対処することを、そうしたときに見せていた生きるために不可欠な性急さそのものに対処することを学んだのだ。わたしたちは時と言うものを学んだ。つまり遅れを、必要、または欲望と、その充足のあいだに横たわる距離を。

 

ピエール・パシェ 根本美作子/訳『母の前で』

呉貞姫 清水知佐子/訳『幼年の庭』など。

 

「依存症当事者が自身のナラティブとしてその言葉を用いるかぎりにおいて」という条件

松本俊彦

 

 

鉄分を摂ることにして、1日飲んだだけでちょっとシャキッとする。こんなものなんだと思う。