日記

とみいえひろこ/日記

2024.03.29

ここ2日くらい、自分が十四、五才の頃にすごく好きだった人の曲を聴きながら過ごした。ら、自分のおさまる範囲が、取捨選択が、スタンスが、ちょっと思い出せたように思う。その頃から何も変わらない。納得いかないものはたぶんこれからも納得いかないだろう、名付けられているものの意味もわからない。名付けられた途端にまったく別のものになってしまうのだろう。もう、いいや。など、など。

ひとまずひと段落したのち、きのうも今日も進めなければと思うものの進められず。成り行きで休憩になった。ものの、できない、できないで、やることリストを何度も書いている。

何年も迷いつづけている応じ方、というより受け止めが、やっと少し、独特のかたちになっていくつかの評価軸においてなんとか良い方向を向くことができてきているんじゃないかと思った、今日。受け止め、だけ私は見ていたらいい、ほかは関係ない、など思う。

 

生まれ出て、わたしたちは苦しみと必要をおぼえた。泣き声をあげ、助けを求めた。

 

待つことの忍耐を次第に学んでいった。すぐに助けが来ないときに自分自身に対処することを、そうしたときに見せていた生きるために不可欠な性急さそのものに対処することを学んだのだ。わたしたちは時と言うものを学んだ。つまり遅れを、必要、または欲望と、その充足のあいだに横たわる距離を。

 

ピエール・パシェ 根本美作子/訳『母の前で』

呉貞姫 清水知佐子/訳『幼年の庭』など。

 

「依存症当事者が自身のナラティブとしてその言葉を用いるかぎりにおいて」という条件

松本俊彦

 

 

鉄分を摂ることにして、1日飲んだだけでちょっとシャキッとする。こんなものなんだと思う。