日記

とみいえひろこ/日記

ドナ・ウィリアムズ 川手鷹彦/訳『自閉症という体験』

今日は時間があり、これはこれでとても不安。でも前ほどのわなわなする感じではない。仕事日誌をつけたり、現実をとらえられるためにできることはして、これくらい。

 

・「感覚」と「悟性」にいったん言葉として分けて、名付けた上で話が進む。「悟性」は「知性」といわれているようなもの。秩序、論理、共有、翻訳された言葉、解釈、などなどに親しい。

・「それ/it」という指向性/志向性がある。「それ/it」のための、「私」という身体、という「場」がある。

・「私」のなかに、恐怖があり、悪があり、「異邦人/エイリアン」というわからないものが住んでいる。

・ひとりひとり、ひとつひとつ、物事と出会い、知り合う様式がある。

・それをそれ〈として〉、経験を経験〈として〉出会い知り合うには、「共振」という方法がある。これは「感覚」的な出会い方、知り合い方。

・「自閉症」という名は、その内がわの現実の何をも記述しない札。

・「それ/it」の場として、「受肉」し身体のなかに入らず「そこ」に残ったものの残り方、ありかたがある。「生命」という「現実/リアリティ」のまま、傷つきながらいる(これを「悟性」の言葉で言うと「ピュア」だったり「純粋」になって、ぜんぜん別のしくみのなかで価値をもたされて、使われて、奪われて消費される、あれになるのかもしれない)。

・意識的に物事に気付くことで自己認識が起こり内省と選択が生まれる。不死を認め、生きてここに曝されている存在であることを受け入れる。その過程、その様式の違いについて。

・「私」という「場」が戦争状態になるとき、目に見えるかたちにまで悟性に届いたときにその場は「本人が起こす抵抗、回避、障害」の場と解釈される。

・感覚という内的な言語、悟性という解釈や構造の言語、このふたつの拮抗する言語同士が、不誠実さという逃げ場を舞台に、傷つきながら励まし合いながら現実がつづいてきた。

 

『さまよえる自己』と一緒の時期に読んだ。知らずしらず自分のなかで補完し合っているところがたくさん。