日記

とみいえひろこ/日記

2022.02.03

一度、見たことがある。公園の白い壁、自分の背と同じくらいの位置を手のひらでざっとやったのを。砂と壁の接しているところへ手が侵食する感触と、光や温度や音の感じをたのしんだのだと思う。これがあの感じかなと思って見ていた。よく言う感じ、あらゆる時間が自分のからだのなかにめぐっているように世界を生きていると、わたしは今のところ理解している。理解のしかたはどんどん変わると思う。自分のための理解であるから。自分のための理解でしかない。

この風景を目撃できたのはわたしのよろこびだと思う。すごく不思議な、そのひとだけのもつタイミングで、ざっとやった。そこに間違いも正解も美しさも醜さも、何の解釈も、言葉もあてはまらない。そういうことだと思う。

時が来て、今日はみんな眠っている。人も犬も眠っている。時間がないことと時間ができたことがある。曲をかける。曲を聴く。胸のなかが熱くなる。曲を聴く、それだけの時間が、ほんとうにあるだろうか。ないなかで音楽を流すんだと思う、音楽はいつもちゃんとは聴かれない。

パスカルキニャール『ダンスの起源』(桑田光平、堀切 克洋、パトリック・ドゥヴォス  訳)(水声社)に思いがけず自閉症の記述があってドキドキした。生まれ直すことがダンスとして、その起源としての、ゆさぶり、からの記述だったと思う。このことを、わたしもいつも不思議に思っていた。見とれていたし、もっと不思議に思いもっと見とれていたかった。

何の解釈も、言葉も、ルールも、あてはまらない。ところを、生まれ直しているものとして、あるいは生まれていないものとして、どちらかの岸に足を着けているものとして生活していかなければいけないときに、あてはまらないところに無理やりなんらかの解釈や言葉やルールを橋として渡し、どこかを理解しあわなければいけないこと。そこに気をとられるのは当たり前だと思う。ただ、どこかは理解せずにおいておくこと。置いておきかたを学ぶこと。その両方を同時に知っていくことは、互いを邪魔しない。たがわない。たがうけれど、たがわない。