日記

とみいえひろこ/日記

『黄色い雨』フリオ・リャマサーレス 木村榮一 訳

それからは終焉が、長く果てしない別れがはじまることになるが、私にとってはそれが人生そのものになった。 

 

それで、この、黄色い雨は何だったんだろう。

たいへんゆっくりだからときどき忘れてしまうけれど、今もわたしがみているこの風景は、わたしが果てしなく死んでいくものとしてみている風景だということ。ゆっくり死に続けているものとしてみている、言葉のない、意味づけをゆるさない、美しい風景だということ。

黄色い雨が降るとき、雨に混じってすべてのものが黄色に見える場所なのだろう。小説には年代が書き込まれてあった。年代というのは生き延びた側のものが歴史と結びつけて理解するための、つまり、戦いをし、殺し、苦しめ生き残る人間というものと、結びつけて理解するためのツールだ。

黄色い雨を浴び、黄色い雨を見るとき、見ているわたしも黄色に染まっているのだろう。目をあけてものを見ることは光を見ることでしかないけれど、光に意味づけをしてしまうひとの切なさはなんだろう。意味づけをして、説明のつかなかったものを見ないようにしてしまいたいと捩れ、もがき、醜くなるような、浅ましくなるような、ひとの心のはたらきの切なさは。

死んでゆく時間に服従していくうち、役割をみつけ、人や生きものとの関わりから、というか、ひとりの人が人としての関わり方やルールから、言葉から、引き剥がされてゆく。生きて意思や思惑や主体をもって動くというなにか不自然な営みから、自然な営みに命を返していくような時間に思える。

傷だらけの飢えた身体、細胞の生き死にの舞台としての身体があり、雨を享けて老いる。身体は死に近づくなかで役割をみつけ、死の世界の言葉で世界と関わりをする。

名前をもち、何かの代わりに生きることでなら生きられる。生き延びられる。そうやって生き延びてきたことが剥がれ、生があらわになる。

死の世界のルールに適応していくうち、居場所が定まってゆく。居場所がなく定まらない生の世界から皮膚一枚隔てた死の世界に定まってゆき、恐ろしいほど静かになってゆく。生の世界はとても雑多で、狡く、痒くて痛いような、嘘ばかりのような、か弱い、逆説の輝く世界だと思う。この生の世界と隔てられながら遠く、あるいはとても近く、つながっている世界に死があり、「人生そのもの」がある。

 

『黄色い雨』フリオ・リャマサーレス 木村榮一 訳(ソニー・マガジンズ)