日記

とみいえひろこ/日記

2022.02.13

片方には、そこに居場所はないという。ない、とよくいわれる。居場所があるほうは、そこにいる。居場所にいるほうは、片方と出会うことはない。そこにいるしかない、そこからうまく抜け出せなくなることもあるから。居場所がないほうの片方は、いるのではない生き延び方をする。危ない橋を渡る。死ぬのもいる。死ぬのもいるのは、居場所にいるほうも同じ。危ない橋を渡るのも同じ。多いか少ないかは違うかもしれない。外から見つけられ、片方を、その居場所にいさせるようにしたらいい、ということになる。それは叶うかもしれない。それはこの段階ならば大事なことだろうけど(誰にとって? 片方が危ない橋を渡る技術を身につけたのはなぜ? 片方ではないほうが抜け出せなくなるのはなぜ?)、結局、同じようなことが起こる。外にいるものは外にいて、個別具体的に出会っていないから。その他、その他。何も、ほんとうのところはわかることなどできないのに。仮に、「片方」として分けたのだったのに。「居場所」も仮なのに。せめて、とりいそぎ、目に見えたものを、ということなのに。あぶれるところに本質があり、外にいるものは外にいて、あぶれさせることに夢中になってしまう。だから、そういうことばかりなんだと、だんだんわかってくる。ほんとうに少しずつだけどましにはなっている、そうやっていくしかないのだ、というのとは、どこかが違うように思う。これを、自分に向けて思う。

居場所にいるほうは、生き延びたほうは、ほんとうに死んでいないんだろうか。