日記

とみいえひろこ/日記

2022.04.06

理解というつながり方ならできるのかもしれない。理解は、理解する側の理解であって、理解のしかたはそのときに応じて無限にあってしまう。いつまでたっても理解へ辿りつけず、その道のりで自分にあった理解のしかたをさがす。これも違う。これも、これもどうも違う。いくつかのつながり方を手に入れることはできる。そのことが、それとつながるかどうかはわからないけれど。それのほんとうの苦しみは、それ自身のことは、誰にも理解されないし、侵してはならない。

この人のいない4月からわたしはどうやっていけばいいのだろう。そう思っていたけれど、どうやっていけばいいかわからないときのふるまい方もあるよということを、大丈夫ですよということを、気づかないところで、気づかないうちに、しるしをつけてくれていたのだときのう思った。