日記

とみいえひろこ/日記

『パスト ライブス/再会』セリーヌ・ソン/監督・脚本

『パスト ライブス/再会』セリーヌ・ソン/監督・脚本。映画館に入り座席に座るのがいつもぎりぎりになる。よかったなあと思って、やるべきことが手につかない。小品、佳品、という感じで、こういうのこそ映画館で観てよかったな。細かく気を遣っているところがたくさんきっとあって、上手すぎる技に感動したという感じ。いつも、映画も本も、宣伝のコピーは何の役にも手がかりにもならないなと思う。

 

・扉が印象的だった。「PAST」と「LIVES」の間も扉に見える。

・ノラとヘソンの訪れたところに、一定の空間と一定のカップル。それぞれのふたりの時間がありそれぞれのイニョンがあるということを視覚的に植え付け思わせる。ひとりだけ、ひとりの、すこし大きな、背中を正面に向けた男がいたように思う。もし、もし、が重なって、ひとりになった誰かの姿かもしれない、など。

・心に残っているところは、ノラが、ヘソンの「韓国人っぽい男っぽさ」を批評する場面。外へ出てきてそれを外の別の、ユダヤ人という背景を持つ彼へ言っているところ。そう感じる私自身こそが韓国人っぽいのかもしれない、という揺れも、すこし語られながら。

ほんとうは、もっともっともっと複雑ではかりしれない背景がそれぞれあってここにいる、ということが、彼ら彼女らの扉のすきまに漂っていることを思う。ヘソンのたたずまい、ヘソンの見られ方、この外国での、現在の感じがこんな感じなんだ、と、この風景ごとが今なんだ、ろうか、と、今しかこの風景を私は見ることがない貴重さを感じながら見た。兵役の期間にひとりの男が思うことは、それを経験した同士しかわからないだろう、そういうことにはっとしたりしながら。

・ヘソンもまたとてもクレバーな人だと思った。選べない、選ばざるを得ない、選ばない、そういったことを、ノラより多く持っているだろう、とどまっているだろうヘソン。ただ、それらをどう、どんなふうに受け入れるか、というところに、ヘソンだけの選択があり、それは奥深く、成熟した選択だと私はしみじみ後から思う。といっても、選択のあり方自体が、母的な、父的な、息苦しいくらいの慣習、事情によって醸成されてきたところから生み出される部分が大きいのかもしれない。いずれにせよ、それとどうヘソンが向き合ってきたかということが、ひとつひとつの言動、とどまり、選択に現れていることを思う。

・縁とか仕事とか、中国から来て韓国とかなり似た発音の言葉を私たちも使っているんだな、と思いながら見た。

・見ている、何も見えていない、距離と内面を意識させるはじまりかたが心に残る、思い出す。