日記

とみいえひろこ/日記

2022.10.14 デルフィーヌ・オルヴィルール 臼井美子/訳『死者と生きる』(早川書房)

繰り返し何度も語られた物語を語るすべを知り、初めて聞く人にその人自身の物語を理解するためのまだ知られていない鍵を与えること、それがわたしの仕事である。

 

まだぜんぜん途中だし他のことを考えながら文字を追っているだけだけど(ふわふわするのを落ち着けるためにわたしは読む作業をしていることが多いと思う)、なんかすごい本だと思う。何度か最初から読み始めて、また文字を追っているだけになって、最初から、また。でもこれは年齢のせいか。

言葉も、文字もインクも紙も、それがすべて裸で、何かの象徴として奉仕しているものたちであるという面をこちらに向けて見せるような、奇妙で不思議な文章だと思う。何かがそこにあるだけで物語があってしまうということの、続いて広がり、伝染してしまうということの、人というものがもたらしつつ抱えなくてはいけない絶望感みたいな。出られなさみたいなもの。

わたしがこの語りから受け取っているらしきこれは何のなまなましさだろう、象徴というものを必要としたり利用すると決めるにいたった人の弱さや賢さ、傷のなまなましさみたいなものだろうか。死者と生きる、いいえ、死者の外で死を知らずに生きるということの気配のなまなましさや危うさみたいなもの。

翻訳され、装丁をほどこされ、お金を払って今わたしが別のことに心を奪われたりしながら読んでいるということも、別の本と並行して読んでいるということもまた、この語りに連なってゆくことであって、自分の行為が象徴の一部だという面を向けられ見せられる。読むということが何かを何かに向けてあらわしているのだということを見せつけられるよう。

なぜわたしがここに連なってゆこうとしているのか、何を求めているのか、ここにしがみつこうとするのは何によるのか、このことは何の象徴なのか、何に自分を捧げているのか、ということを思わせる。

そして、そうではないかも、逆なのではないか、と思う。わたしが何の支配者なのか、何を食べてまで、何を犠牲にしてまでここにいてこれを読んでいるのか、何を読もうとしてこの語りを利用しているのか、わたしが読むことでつくりだす象徴は、物語は何なのか、何をわたしはしたかったのか、読みたかったのか、見たかったのか、と思わないと、と思う。自分が怪物みたいに思える。

 

デルフィーヌ・オルヴィルール 臼井美子/訳『死者と生きる』(早川書房