日記

とみいえひろこ/日記

2022.11.21

なぜなら文学は、一人ひとりの生に言葉を与えることで、個別の経験と感情を社会に開き人々につなげ、時と場所をこえて共有可能にするからだ。たとえば、ウガンダの農村でHIVとともに生きる母親の物語を読むとき、私たちはたしかに、彼女の気持ちを「知っている」と感じることができる。物語をつうじて、私たちはHIVと生きる彼女の人生を想像し、自分のこととしてそれを生き直すことができる。もちろん、彼女が置かれている社会状況を深く理解すれば、その「知っている」という感覚は変化するだろう。共感したつもりが一方的な思い込みに過ぎなかったと再認識することもあるかもしれない。そうであっても、文学をつうじて彼女の生を生きなおした私たちにとって、彼女はもはや共感不能の他者ではない。彼女は、メディアでよく知る目にする「アフリカの母」(略)であることをやめ、感じ、考え、語る隣人となる。私たちは、この隣人のことをもっと知りたいと思い、この隣人のために何かできることはないかと考えるようになる。そしておそらく、この隣人とかかわろうとする過程で、自分自身が変わりはじめる。

 

大池真知子『エイズと文学 アフリカの女たちが書く性、愛、死』(世界思想社

 

「文学は」にこだわらず、ここには別の言葉が入ってもいい。

なんかすごい本だと思って、合間に読んでいる。今日は写すところまで。