隠れて、そのひとの本棚にある小説を読んでいた。わたしには、その作家の本が「読む」という出会い方のはじまりだったかもしれない。
その作家には様式があった。ある大きな、ひとつの課題はない、という前提ですべてのことが成り立つという様式。わたしたちの生活に欠かせないあるひとつの課題は、その作家の世界ではいつも、ないことになっている。そのようにあらかじめことわりがあってから、物語が始まる。意識的にそうしているのではないか、と思う。
入口がその作家だったものの、わたしはその作家の書くものはあまり好きじゃない。なんか鼻につく、と感じるから。どうなるかわかる、と感じるから。ただ、その様式がなぜなんだろうと思っていた。
ある大きなひとつの課題がない、ということこそが、書かずして書かれている、という読み方もできるんだなと思う。世界から隔絶された、こことよく似ている世界で登場人物たちは生きる。そこで登場人物たちが出会うものは、わたしたち、わたしが抱えている課題とある意味で同じものかもしれないと思う。
彼らはいつも、課題のない、しがらみのない、身軽な身体をもって別の世界にいつも隠れ棲むことが出来ている。でもいつも、そこで何らかの心理的な展開があり、課題やしがらみと出会う。縛られたり苦しんだり、縛ったり苦しめたりする。それではこの世界と同じことなのに、なぜわざわざあの課題はないことになっているんだろう?
その課題こそが書きたいことだから。帰っていく場所、逃げこむ場所をなくしておきたかったから。縛られて苦しんで、また、縛って苦しめて駄目になって、生き残ってしまった身体でもういちど生き直すときに戻ってくる場所を孤独という場所にすることで、課題と孤独の結びつきを書きたかったから。たとえば。
たとえば縛ること、苦しみ。別の世界に生きて何かを〈知る〉ということをやってしまったら、またそこでつながってしまう。足をとられてしまい、何か、ただの私だったものは私でなくなり、ここにいられなくなる。何もない穴へ落ちてしまえなくなる、かといって、居着くこともできない。私は〈意味〉になってしまう。たとえば。
↑
たとえば、村上春樹はいつも家族を書かないなあと思って。